「テスト結果は良好だ。移動箇所のミス確率は前回の装置より最低15%減っている」
 巨大な石造りの転送装置をジョー=エルは撫でた。
「装置ごと転送される事態もどうやら改善出来た。より安全に君を送り返せる」
「ありがとう」
 真夜中にタワーへと呼び出されたブルースだったが、苛立ちなど装置完成の知らせの前ではあっさり掻き消える。心からの感謝を込めて、ジョー=エルに右手を差し出した。
「どうするね?今すぐ使うか、それとも――」
「父上」
 案内の為にとブルースに付いて来たカルが、横から口を挟む。
「今日はもう遅いですから、明日の朝早くにしてはどうですか?急な話で、彼もまだ身支度が不十分でしょう」
「カル、私は別に」
「そうだな」
 ブルースの手を力強く握り返しながら、ジョー=エルは優しい眼差しで言った。
「私ももうしばし、君と名残を惜しむ時間が欲しい。最後の朝食を家族で共にしたいのだが、許可をくれまいか」
「…ああ、そうしよう」
 斜め後ろのカルが安堵する気配は、見ずともブルースに伝わって来た。
 1時間半後、ブルースはすっかり馴染んだベッドの上で、幾度目か分からぬ寝返りを打っていた。
 月が明る過ぎるのかと、自動カーテンを調節したり、枕の位置を変えたりしたのだが――眠れない。
 睡眠中を叩き起こされたが故の生理現象ではないと、ブルースは薄っすら悟っている。もう数時間でこの星や世界と別れ、そして2度と会う事が無いだろうと言う事が、らしくない不眠を招いているのだ。
 自分は帰る、元の世界へ。
 この星に住む人々の殆どが、死に絶えている世界へ。
「……」
 枕に顔を埋めたまま、考えるまいとブルースは瞼を伏せる。だがそれでも、明日になれば彼らを失うのだと思うと、どこかやり切れない気持ちだった。
 まるで自分が、クリプトン崩壊の引き金を引いてしまったような。
 ブルースは上体を起こした。波打つシーツの合間から足を引き出す。どうにも眠れる気がしない場合は、水を飲んだりトレーニングしたりするに限る。ブルースは前者を選んだ。
 音も無く開いたドアをくぐる前に、ブルースは足を止めた。大きな窓に向かって置かれた机と椅子。そこに座っている者がいたからだ。
 驚いた様子で、カルがこちらを見つめた。その顔へ徐々に微笑らしきものが刻まれていく。はにかみと戸惑いが等分に交じり合った表情に、ブルースはどう応えるべきか迷いながら、それでも一歩足を踏み出した。
「眠れないのか」
「君もそうだろう」
 カルがもう1つ椅子を出した。促されるままブルースはそこに腰掛ける。痩せ細って青白い月が、2人の肩に淡々とした光を降らせていた。
「飲むかい?」
「ああ、貰おう」
 グラスを取り上げたカルに頷き、ブルースは手を伸ばす。受け取った瞬間、指先と指先が僅かに絡んだ。
「っ」
 急に手を引かれてグラスが均衡を崩す。慌ててもう1つの手で底を支えてから、ブルースはカルを見上げた。
「危ない」
「…悪かった」
 小さな謝罪の言葉を耳にしながらブルースはグラスを傾ける。アルコールは入っていない。例の癖が強い炭酸が舌を刺した。グラスを机に置くと、カルが声を立てずに笑っている。
「どうかしたのか?」
「いや……そう言えば、前にもこんな事があったと思って」
「前?」
 問い返す端から記憶が甦る。ジャベリンの船団がクリプトンにやって来た日。
 あの日コップを床に落としたのは、ブルースの方だった。
「あれからまだ1週間も経っていないのに、不思議なものだな。随分と昔のような気がする」
「色々な事があったからな」
「そうだな。君が来て、事故があって、地球人と将軍が来て……」
 指折り数えていたカルが、ふとブルースへと視線を上げる。揺れる月明かりに照らされた双眸は空色ではない。深い深い、そしてどこまでも透明な海の底を覗き込んだ気がして、ブルースは惑い瞳を逸らす。
「…そして僕は君を……」
 溺れ掛けた人間のようにブルースは首を振る。
「止してくれ」
 聞いてはいけない、そこから先は。氷と評された声音を出そうとしながら、ブルースは言葉を紡いでいく。
「私は明日になれば元の世界に帰る。君と会えて友人になれた。それだけで十分だ」
「だけど僕には足りないんだ」
 腕を掴まれた。熱さも中に秘められた情動の強さも、まるで瓜二つ。何度も思った事がもう1度頭を掠めていく。
 そう思うのも多分、これで最後。
「家族以外の誰かに対して、こんな――こんな激しい感情を抱いたのは初めてなんだ。心配だとか、喜んで欲しいとか、そう言った事で胸が一杯になる」
「それは、私が友人だからだ」
「違う」
 駄々を捏ねる子どものように、カルは首を振る。ブルースは腕を掴む手の上に自分の手を重ねた。離せと言う代わりに力を込めても、微動だにしない。
 茜色の光がその目に宿る事は無いけれど、心を刺さんとばかりの強い瞳がブルースを見つめる。
「君が好きだ」
――ああ。
 ついに聞いてしまった。ブルースの手から僅かに力が抜ける。
「君と一緒にいたい。離したくないんだ。…危険な世界に戻るよりも、ずっとここにいて欲しい」
 この世界ならば戦う必要など無い。犯罪者はすぐさま捕らえられるのだから。偏見と不公平に満ちながらも、裁きは絶対的に降り注がれるのだから。
 そして側にはこの男が。
 ひたむきな瞳と声が、温かな手が、帰還しようとする心を溺れさせる。
「駄目だ」
 それでもブルースは言った。
「私はあの街を…あの世界を諦める訳にはいかないんだ」
「体中が傷だらけになっても?いつか死ぬかもしれないのにか?」
「ああ。私は両親の墓に誓った事がある」
 この世から犯罪を失くす。
 自分のような存在を2度と生み出させない。
「それを破る事は、今までの私を全て否定する事になる。それに、向こうの世界で待っているのは……私に傷を負わせるような事ばかりではない」
 手から力を抜き、ブルースは優しくカルの手を叩いた。鋭い光が不意に青い瞳から消える。
「…向こうに、恋人が?」
「……そう呼べる存在かは甚だ疑問だがな」
 肩を並べ背中を預け、時には傷付け合う男。
「言い争ったままここに来てしまった。戻ってやらなければ」
「仲直りをする為か?」
「いいや」
 落としていた視線をカルが上げる。ブルースは唇の端をもたげた。不適極まりない闇夜の騎士の微笑に、怪訝そうだったカルの顔が怖じたような色合いを帯びていく。
「決着を付ける為だ」
「……少し妬けるが」
 真剣な表情のままカルは続ける。
「気の毒だな」
「安心しろ。病院送りにはなるまい」
 その言葉にカルは笑い出した。ブルースも小さく肩を震わせる。抑えた2人分の笑い声が、月光と共に部屋には満ちていった。
 潮のようにそれが引いていってから、ようやくブルースは動揺せずカルと向かい合う事が出来た。海の底を思わせる瞳をひたと見据える。
「だから私は、君の想いに応えられない」
「――分かった」
 静かにカルは頷いた。
「困らせてすまない。だけど最後に、ひとつだけ」
「何だ?」
「君の名前を教えて貰えないか?」
 笑みの名残を帯びた唇が、ひたすら優しくそう呟く。先程の激情が嘘にも思える穏やかさが、ブルースの胸を突いた。
「ブルース・ウェイン」
 一文字一文字を出来るだけはっきりと紡いでいく。
「ブルース……」
 僅かに違った抑揚で、カルはその名を唱える。柔らかな薄い唇で。
――最後に、ひとつだけ。
「そう、それが私の名だ」
 自然と顔が近付いていく。
「ブルース」
 今度は完璧な発音とアクセントで、カルはそう呼んだ。その息と熱を感じる。
――最後に。
 指先を、ブルースはそっとカルの頬に滑らせる。一瞬さ迷った瞳は、しかしすぐに下りて来た瞼で隠れていった。それを見届けてから、ブルースもそっと目を伏せる。
 やがて唇が柔らかな感触で覆われる。
 静寂と青い光だけが、いつまでも揺れ続けていた。



 赤い太陽が目に痛い。クリプトンには雨が無いのか、と疑わしくなるほど、今日も空は晴れていた。
「お世話を掛けました、ラーラ」
「こちらこそ、ありがとう」
 差し伸べた手を、一瞬躊躇ってからラーラは取った。折れそうなほど細い指は意外にも力が強く、ブルースは遠慮していた手に再び力を込めた。
 手を離してから、ラーラは己の脇に立っているカルを引き寄せた。促すように背中を軽く押す。
「来ないのか」
「ああ。ここで見送るよ」
 そこでカルは声を潜めた。
「実を言うと、自分でも何を仕出かすか分からなくてね」
「…短気な所は治した方が良いぞ」
「そう思う」
 顔を綻ばせてから、カルは不意に目を潤ませ――ブルースを抱き締めた。
「お、おい……!」
「さようなら、ブルース、バットマン。無事で帰れる事をラオに願っている」
 涙を滲ませているような声に、ブルースは抗おうとした腕を虚空で止めた。
「いつかまた、どこかで会える日が来る事も」
「……私もだ、カル=エル」
 ブルースは伸ばしていた腕を下げ、ゆっくりと広い背中を包み込んだ。肩口に埋まっている頭を、片方の手でそっと撫ぜる。
「その日までどうか、元気でいてくれ。怪我をそれ以上増やさないように」
「ああ。お前も無茶をするな」
「お前と言われたのは初めてだ」
 肩口から顔を上げて、カルは片目を瞑った。その様子にブルースは笑う。
 互いの背中に回していた手を解けば、間を裂くように風が吹いた。
 黒いケープと白い長衣が競い合うように靡く。風の行く先へと踊るそれを横目に見ながら、ブルースはマスクを下ろした。
「…それでは」
「ああ」
「気を付けて下さい」
 寄り添う2人の母子に背を向け、移動用ポッドへと歩を運ぶ。入り口ではジョー=エルが待っていた。
「では、行こうか」
 頷いて中に入る。ポッドはやがて、音も立てずに空へと舞い上がった。
 窓越しのカルとラーラが、どんどん遠くなっていく。手を振らずただこちらを見上げる2人の顔が、やがて判別出来なくなり、姿も床と交じり合い、そして消えた。
「さようなら」
 口の中でその言葉を転がすと、喉の奥から叫びたいような衝動が込み上げ――
 ブルースは己がマスクの形状と、ジョー=エルが何も言わない事に、深く感謝した。
 タワーに着いてからも、ジョー=エルは無言だった。この世界に来た時とは逆の道を2人は進む。白い世界の冷たささえも、今はどこか愛着が湧いて来る。
 昨夜の部屋に入ると、ジョー=エルは助手達を出し、1人で操作盤に向かい始めた。ものの数分で作業は終わったらしく、横で眺めていたブルースを彼は招く。
「ここへ」
 言に従い操作盤の前に立つと、ジョー=エルは小さな溜息を吐いた。
「お別れだな、バットマン」
「ああ。…今までありがとう。貴方が私を引き取ってくれて良かった」
「私も君に会えて良かった。カルは君のお蔭で随分と変わったよ。……本当にありがとう」
 力強い握手を返してから、ジョー=エルは一歩下がる。操作盤を彼は見下ろし、それからまたブルースに視線を向けた。
「以前話してくれた、君の世界での事だが」
「何か気になる事でも?」
「ただ1人生き残ったクリプトニアンがいると言っていたが、それは――」
 そこでジョー=エルは言葉を切った。ひたむきな、息子と良く似た視線をブルースは受け止め、微かに顎を引いてみせる。
「貴方の考えている通りだ、ジョー=エル」
「……そうか」
 俯いた目に何が映っているのか、ブルースには矢張り読み取れなかった。
「では、始めよう」
「頼む」
 操作盤の1つのボタンをジョー=エルが押す。彼が退るとすぐに、操作盤からオレンジ色の光が飛び出し、ブルースの周囲を薄く包み込んだ。
『座標確認、これより転送を開始します』
「そちらの世界でも」
 金属じみた声の間をすり抜け、ジョー=エルが声を張り上げる。
「息子をどうか――よろしく頼む」
「……」
 勿論だ、とブルースは答えたつもりだったが、声は最早自分の耳にも届かない。
 やがて視界一面が、夕映えに似たオレンジ色に染め上げられる。余りに強い色の所為で、自分の手さえも分からない。いやここにあるのかさえ、ブルースには――
 溶けていく、と思った。
 それを最後に意識は途絶えた。

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