ここがクリプトンであるとの言葉に、素直に頷ける訳がない。しかし認めざるを得ないような物ばかりが、ブルースの視界には飛び込んでくる。
 窓越しに入って来る赤い日差し。見た事のない金属で形成された円形の乗り物。それを運転する小型のロボット。
 そして今、眼前に座る、馴染みのあるマークと髪型を持つ男。
 ブルースが腰を据えているのは、高級リムジンの席に劣らない横掛けのソファだった。向かい合って同じソファが備え付けられており、そこにジョー=エル――と名乗る男――が座っている。
「乗り心地はいかがかね」
「初めて乗るが快適だ」
「それは良かった。これを嫌う者が少なくないのだ」
――高いからな。
 ブルースの背後とジョー=エルの背後、それと向かって左側に位置する運転席には、大きな丸い窓が付けられている。それを覗けば下方にある地面を望めるだろう。ブルースは先程までこの乗り物が地面を走っているとばかり思っていた。何気なく窓を見て、絶句したのが3分前である。下手なタクシーより静かな離陸と上昇など、聞いた事がなければ経験した事もない。
「…移動にここまで上昇する必要があるのか?」
 背後の窓に視線をやってから、ブルースはそう問うた。地表に淡く白く広がっているのは、恐らく街並みなのだろう。家に行くとジョー=エルは言っていたが、そこが同じ首都内にあるのかブルースには疑問だった。
「ああ。家が――丁度良いな、見たまえ」
 ジョー=エルが背後の窓を示した。視線を移すと、ほぼ同じ位の高さに白い塔が建っている。塔と言うには飾り気に欠けるが、その陶器か水晶のような光沢は、ビルと呼ぶのも不粋である。ウェインタワーの数倍はあるだろう様に、ブルースは目を細めて見入った。どのようにして建てたのか検討もつかない。
「家はあれと同じような物だ。もうすぐ進むと見えて来るだろう」
「…良く分かった」
 窓から周囲を見渡すと、同じような建造物がまばらに建てられている。
「この星の住民は、皆あのような建築に住んでいるのか?」
「いいや。許可された者にのみ与えられる」
「貴族階級?」
「身分制度は500年前に廃止された。が…」
 深い淵を思わせる溜息が、ジョー=エルの口から漏れた。
「似たようなものだ」
 その特権を享受している者の1人にしては、随分と憂いを帯びた声である。ブルースは一瞬、この初老の男に好意を感じた。
『3分後に到着します』
 機械的な声が運転席から響く。そちらの窓には、確かに先程のものと同じ建造物が、天に挑むかの如く直立していた。
「さて到着してからの事だが」
 再びブルースはジョー=エルに向き直った。憂悶の影はすっかりと消えている。
「君のいた座標を調べようと思う。判明次第、君が迅速かつ安全に帰還出来るよう、最大限の努力を尽くそう」
「…ありがたい申し出だが」
 もしここが本当にクリプトンならば、この宇宙にある地球は果たして、自分がいた地球と同じなのか。それに――
「私は“3日後の議会”とやらで行く末を決定されるのでは?」
「聞いていたのか」
 笑いに似た微かな揺れが、ジョー=エルの表面を撫でていく。
「だが君は我々の実験失敗でこの星を訪れた身だ。すぐ帰れるならばそれに越した事はあるまい?」
「確かにそうだが、貴方の身に迷惑は及ばないのか?」
「案じなくとも、私は既に煙たがられている身だ。問い詰められれば…君に脅されたからだとでも答えておこう」
「それが良い。私は蛮人だ」
「根に持つ方だな」
 今度こそ確かな微笑を、ジョー=エルは浮かべた。ブルースの視界でその笑みは、元の地球にいた男のものと重なって見える。
――口元が似ているのか。
『到着します』
 車のエンジンよりも微弱な振動が、円盤全体を振るわせた。
『到着しました』
「行こう」
 ジョー=エルに続き、ブルースも円盤を降りる。赤い陽光を反射するのは、ホテルのロビーのような床だ。近くにはエレベーターに似たものまで立っている。更にその横には、ブルースの胸ほどの高さを持つ、水晶柱が輝いていた。
「私の家族は君が来ると知っている。ただ彼らは異星人と間近な接触をした経験が少ないのだ。不躾な事を言ったら申し訳ない」
「気にしないでくれ。私も無作法な事をするかと思う」
 そう答えながらも、ブルースの頭にはある懸念が生じていた。
 家族と言うならば、恐らく、妻子だろう。奥方はともかく、彼の子と言えば、つまり話は決まっている。
 ジョー=エルは水晶柱に向かい、何やら操作をしていたが――やがて口を開いた。
「カル?私だ、今帰った」
『お帰りなさい父上』
 その声が聞こえた刹那、ブルースは微かに身を震わせた。
 予想通りだ。酷似している、余りにも。
「研究室への扉を開けてくれ。客人の帰り道を調べねばならん」
『…科学議会の承諾なしで?』
「問題なかろう」
『ですがその“客人”には』
「よせ、カル」
『……研究室の準備に行きます』
 それきり、ふっつりと声は途切れた。ジョー=エルが溜息交じりにブルースを振り返る。
「今のが1人息子のカル=エルだ。すぐに顔を合わせるだろう」
「ああ」
――良く知っている。
 物の考え方からキスの癖まで。だが先程の声は、自分が知るものよりずっと冷えていた。
 他の部分も恐らく、似て非なるものだろう。ここでの彼は、カンザス育ちのボーイスカウトではないのだ。
 ジョー=エルがエレベーターらしきものに乗り込む。それに続きながら、ブルースは地球にいるだろう鋼鉄の男に思いを馳せた。



「幸いにも」
 クラークは一息を置いてから、言葉を発した。
「クリプトンがあった地点や周辺には、何も異常が見られなかった」
『…良かった』
 押さえられた声からも、オラクルことバーバラの安堵は受け取れた。
 だがクラークは眉間に皺を刻んだまま、彼女を映した画面に向かい、話を続ける。片隅ではかちかちとメインコンピュータが動きを続けている。
「JLにもデータを送ったよ。だけど、1つ問題がある」
『“バットマンは今どこにいるか?”ね』
「その通り。振り出しに戻った訳さ」
 バーバラが肩を竦める。
『発信機は反応が無いままよ。途絶えたきり』
「南米以外の地域でも?」
『ゼロ。姿も見当たらない。私がカバー出来る範囲内に、彼はいないわ』
「そうか……」
 ウオッチタワーからここ孤独の要塞に来る途中、クラークは自分の聴力を最大限に使いブルースを探した。彼の鼓動音、声が、或いはどこかから聞こえるのではないかと。
 だが、この耳にブルースは届かなかった。
『ロビン達には知らせたわよ。JLにも、彼らとデータを共有するようにと』
「驚いただろうな」
『驚いたどころか』
 バーバラが口角を持ち上げる。どこか自嘲的な影がそこに浮かんだ。
『血相を変えていたわ。ゴッサムの見回りシフトを組まなきゃ、現場に飛んで行きそうだった』
「無理もないよ。彼が消えるなんて、想像もしていなかった」
 組んだ両手を唇に当て、クラークは項垂れた。外の寒さは遮断されているのに、指先は何時になく冷えている。
 お前の手は温かいなと、ある折には無愛想に、ある折には優しく呟いた、ブルースの声が甦る。ひんやりと吸い付く彼の肌。その感触さえ、鮮明に思い出す事が出来た。
 手を伸ばせば、空を飛べば、触れられる場所にいたのだ。その贅沢が、今になって支払いを求めて来たのかもしれない。
『スーパーマン?』
「…今、クリプトンのデータを検索中なんだ」
 訝しげに問うバーバラへ、傍らの機器を示してクラークは答える。
「この要塞には、1つの星の遺物が詰まっている。僕にも見た事がないデータだって少なくない」
『そこに、手掛かりを求めて?』
「ああ。でも量が膨大で、単純に検索するだけでも一苦労掛かるんだ。だけどあの機械に関する…ひょっとしたら機械そのもののデータが、出て来るかもしれない」
『そうなったら、バットマンを追う方法が見付かるかもしれないわね』
 あくまで理想や希望に過ぎないだろう。が、クラークは藁にも縋りたい気持ちだった。恐らくそれはバーバラも同じだ。いや、ブルースとその消失を知る者すべてが、同じだ。
『それじゃ、手掛かりが見付かるように祈っているわ』
「ああ、そちらもよろしく頼むよ」
 微笑むバーバラの姿が消え、黒い画面に映り込んだ、クラークが取り残される。コンピュータの作動音だけが、時を刻むように細かく鳴り続けていた。長く細く、苦渋を息にしてクラークは吐き出した。
――あんな喧嘩が最後だなんて、真っ平だ。
 喧嘩の前、クラークの制止も聞かず、銃の前に身を晒したブルースを思い出す。脇腹にナイフを刺されたような思いだった。見えない傷は酷くクラークを苦しめ、ついにウオッチタワーで爆発した。
 ブルースは危険の度合いと勝算を、常に計算している。その上で火中へと飛び込むのだ。クラークとて知らない訳ではない。だが彼は、自分といると、他の仲間といる時よりずっと危なっかしい。そしてその理由は、クラークがいる事への安堵からではない。それもクラークは薄々感付いていた。
 決してクラークの手を借りようとせず、1人で解決しようとする。ブルースのそんな矜持の高さは、彼に惹かれていった理由のひとつだ。だが、時としてその対抗意識は、誰よりもクラークに苛立ちを与え、不安を駆り立て、揺さぶった。
 もっと自分の命を大事にするよう、叫びたいのを押さえて発した言葉だった。ブルースの逆鱗を撫でる言葉だとは予想出来ていたのだ。それでもクラークは言わずにいられなかった。
――本気で好きだからだ。
 だが、もしあの時、無茶をするななどと言わなければ、ブルースはここにいたのか?自分と肩を並べて調査に励み、どこへも消えず、機械が転送された事に対して推理していたのかもしれない。
――そうなったら、時間を掛けて、話し合えたかもしれない。
――もしこのまま、ブルースが消えたままだったら、それも出来ない。
「……どうすれば良いんだ?」
 思わず声に出してから、クラークは目尻に滲んだものを、乱暴に拭いた。それと、コンピュータが無音になるのとは、ほぼ同時だった。
 画面に齧り付いたクラークへ、それは幾つかの文字の羅列で結果を示した。



 カールした黒髪が一筋、形の良い額に垂れている。通った鼻筋に頑丈な顎のライン、広い唇まで、寸分違わずそっくりだ。ジョー=エルと同じような白い衣服を、青と赤のコスチュームに替えれば、傍目からは区別出来まい。
「父上、……こちら、が例の?」
「ああそうだ」
 だが今、夏の晴天を思わせる瞳は、警戒と侮蔑に満ちてブルースを見ている。いや、観察している、と称した方が的確だ。初対面のクラークでも見せなかった冷淡さが、ブルースの胸にちりりと痛みを焼き付けた。
 ブルースは苛立ちが膨れ上がるのを感じた。どうも自分は、思っていた以上に傷付いているようだ。その事実が更に苛立ちを増加させ、眉間の皺を深める。
「紹介しよう。先程も言っていたが、これが息子のカルだ」
「父上、帰還させるなら紹介など不必要でしょう」
「カル」
 あくまでブルースには一瞥しか与えぬまま、クラーク――いや、カル=エルは言う。
 ブルースの胸に不快感が広がる。彼がクラークと酷似していなければ、たかが一言や二言は聞き流せるのだ。しかしながら余りにも似た姿と、数時間前のクラークとの会話が、苛立ちに油を注いだ。
「素性怪しく妙な格好をした、しかも危険物付きの男に誰が紹介など――」
 皮肉を効かせた発言を、ブルースが思い付くより先に、ジョー=エルが動いた。
「カル、詰まらん口上は止せ」
 殴らず、激昂せず、彼はただ静かに、自分より頭半分ほど丈高い息子の肩を掴んで言った。その手にもさほど力が込められていない。
 カル=エルが微かに眉根を寄せた。
「……申し訳ありません」
「よろしい」
 居心地の悪さを覚えながら、表情には出さず立ち続けているブルースへ、ジョー=エルは軽く手を向ける。
「では、こちらが客人の」
 だがそこで言葉は途切れた。
 ジョー=エルの視線がさ迷う。どうやら困惑しているとブルースが悟った次の瞬間、ジョー=エルは口を開いた。
「…失礼だが、まだ名前を伺っていなかったか?」
「父上……」
 その言葉と、悠長さを窘めるようなカルの声に、ブルースはどっと疲れが込み上げて来るのを感じた

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