「バットマン?」
「ああ」
「名前がバットで名字がマン?」
「いや、合わせて1つの名だ」
「本名かね」
「通称だ。…この姿の時の」
「成る程」
 興味深そうに何度も頷きながら、ジョー=エルはブルースの斜め前を歩いている。背中に冷たい視線を当てて来るのは、数歩後ろを歩いているカルだ。
 窓のない、白一面の壁に囲まれた廊下は、十分な横幅にも関わらず息苦しい。廊下の先に行き止まりが見えた時、ブルースは訳もなく安堵した。
「ところでバットマン」
 ジョー=エルの杖が見慣れた光を帯びる。音も無く開いた壁の先には、数多の機器が無造作に並べられていた。
「何か?」
「君は軍人かね。転送機器を調査した話といい、その…装備といい」
 思いの他、広々とした室内に入りながら、ブルースは何と説明しようか考えを巡らせた。単にヒーローだと名乗っても、ジョー=エルならば「そうか」の一言で片付けそうだが、後ろにいる男が面倒臭い。
――そもそもクリプトンに、ヒーローという概念があるのか?
「人前で言えない仕事でも?」
 皮肉気なカルの言葉に、視線が尖り掛けるのを押さえながら、ブルースは答えた。
「特殊技能や装備で各地域の警備及び防災活動に当たる、自警団連合の一員だ」
「ほう」
 余り間違った事は言っていない――気がする。
「民間だが、政府から仕事を委託される場合もある。今回はそのケースだった」
「良く分かった。君の格好は仕事の為なのだな」
「そう言う事だ」
「マスクまで付ける必要があるのか」
 今度こそカルに向き直り、ブルースは言った。
「犯罪者を逮捕した場合、彼らが報復する事態も考えられる。素顔や本名が分かれば、それだけ危険に晒される」
「犯罪者の逮捕?」
 カルが片眉を上げる。
「そんな仕事を、民間にやらせる警察がいるとはな」
「私の仲間には、他者に全てを任せるような臆病者がいないのさ」
 君のように、と付け足さず、しかし口調にたっぷりその意図を込めてブルースは言った。案の定カルの視線が険しくなる。その様を見届けてから、ブルースは再びジョー=エルに向き直った。
「私が到着したと言うのは、ここか?」
「いいや。実験室の方だ。こちらで君の星の位置を調べてから、向こうで調整を行う」
 計算式やクリプトン語の書かれた紙が、机の上に丘を作り出していた。ジョー=エルがそこを掻き分けていくと、下から液晶画面に似たパネルが現れた。あの転送機器に付いていた物とそっくりだ。ジョー=エルが手を置くと、画面に光が点った。
「さて、君のいた惑星の名を教えてくれるかね」
 一体いつ、自分は異なる世界から来たのだと教えれば良いのだろう。そのタイミングと説明にも頭を悩ませながら、ブルースは率直に答えた。
「地球だ」
 それは思い掛けない作用を、クリプトニアン達に齎した。
 画面を操作していたジョー=エルの手が止まる。はっとカルが息を呑む音も聞こえた。
「……知っているのか?」
 クリプトンと地球は遠い距離を隔てているのだと、クラークはブルースに語った。クリプトンではエル家の人間以外に知られていなかった。ジョー=エルが、クラークを送る場所を探していた折に、初めて見付けたらしいと。
 クリプトンが爆発していないこの世界ならば、恐らく誰も知るまいとブルースは目星を付けていたのだ。だが――
「局部銀河群の太陽系に位置する?あの地球か?」
「その通りだ。良く知っているな」
「30年ほど昔に、私がクリプトンで初めて確認した星だ」
 確認しただけならば、ここまで驚く事はあるまい。ブルースは言った。
「その星に何かあるのか?」
「…バットマン、落ち着いて聞いてくれるか」
 ジョー=エルが机のボタンを押すと、椅子が3つ床からせり上がってきた。ブルースに一曲を差し出してから、彼は長い溜息を吐く。
「あの転送装置が、まさか――そんな所にまで行っているとは」
「距離が遠過ぎて帰れないと?」
 ブルースともども椅子に座り、ジョー=エルは首を振る。カルは立ったまま、2人を静かに見下ろしていた。その表情には、益々警戒の色が強まっている。
「地球は……今は、もう存在しない星だ」
「………何?」
「良く聞いてくれ」
 軽くブルースの肩を押さえ、ジョー=エルが話を続けた。
「今から数十年前、クリプトンには大規模な地殻変動による崩壊の危機が訪れていた。科学議会は手を尽くしたが、爆発は刻々と迫っていた」
――ここまではクラークの話と同じだな。
 だが、遠い世界の御伽噺を語るようだったクラークと異なり、ジョー=エルの目には当事者の痛みがまだ宿っている。
「星の崩壊を止める事は不可能だ。そうなると他星への移住しか助かる道はない。私は当時、必死で人間の住める環境を求めた。そして幾つかの星を見付けた」
「その中に地球があった訳か」
「そう言う事だ。ただ、どの星も移住を了承したが、地球だけは聞き入れなかった」
 異星人からの、初めての公式訪問だ。恐らく地球全土が驚愕し、そして移住の申し入れに怯えた事だろう。あの星の住民達は、自分達の問題で手一杯なのだ。初めての訪問者に快く了承する余裕はない。
「そんな折だ。ある移動装置の失敗作が注目された。それはワープの原理を応用して――細かい話は省こう。だがそれを上手く使えば、地殻変動のエネルギーを他所に移動出来る」
「崩壊を免れる事が出来ると?」
「ああ。だがそのエネルギーは物体置換機関の失敗で、元の力が何百倍もの大きさで排出されるのだ。我々の銀河系に吐き出すには、余りにも負担が大きかった」
 嫌な予感がブルースの脳裏を過ぎる。
 この世界の話は、自分がいた世界とは関係がないのだろう。しかし中断させ実は、と述べるには、少なからず気にかかる話だった。
「他銀外に放出するとしても、それでは移住を打診していた惑星の多くが崩壊する。直撃は免れても自転や公転運動に影響を及ぼし、人間が住める環境ではなくなるだろう。…だから議会は、我々に与えられる影響が最も少ない場所を、選んだ」
「まさか」
 喉から出るのは掠れた声だった。
「まさか、地球に?」
「……その通りだ」
 胸倉を掴み、殴り飛ばしたいと、ブルースの両手は動いた。だがジョー=エルの悲痛な面持ちが、辛うじてその衝動を宥める。
 震える手は広がり、そして、硬い拳となってだらりと下がった。
「貴方は、反対したのだろうな」
「だが止められなかった」
 ブルースは黙って床を見つめていた。
――この世界の私も、ディックやバーバラ達も、それで死んだのだろうか。
 自分が知る彼らとは異なる人物なのだろう。それでもブルースは、空ろな風が吹くのを感じていた。
「ジョー=エル」
「…何かね」
「私も、貴方に言わなければならない」
 胸の中の虚無を溶かすよう、長い息を吐いてから、ブルースは顔を上げた。
「私の知る地球には、1人のクリプトニアンがいた」
「まさか」
 驚きの声をカルが上げた。それを背中に、ブルースは続ける。
「彼は、自分が生まれて間も無く、クリプトンが爆発したのだと私に教えた。星の核に異常が発し、崩壊したと」
「そんな嘘がどうして――」
「嘘ではない」
 目を見開くカルに、ブルースははっきりと告げた。教えてくれたクラークと同じ顔の相手に、自分が教えるという奇妙さが、いささか血の上っていた頭を鎮めてくれる。幾らか口調を和らげるよう努力してから、再びブルースは淡々と話を続けた。
「ジョー=エル、貴方1人がクリプトンの崩壊を知っていたらしい。貴方は科学議会でその事を発表したが、聞き入れられなかったそうだ」
「…有り得る話だ」
「そこで貴方は、生まれたばかりの私の知人をロケットに乗せ、安全な育て先として地球に送った。クリプトンの英知を全て詰め込んだロケットは、無事に地球へと着き、彼は地球人のある夫妻に育てられた」
 ふとジョー=エルは目を細める。それから彼はゆっくりと、考えを纏めるように言葉を紡いでいった。
「分かった。つまり君は、平行世界の…クリプトンが崩壊した世界の地球から、送られて来た訳だな。過去でもなく、未来でもない世界から」
「隠していてすまなかった。確信とタイミングが」
「構わない」
 静かに首を振り、ジョー=エルはパネルに触れる。途端に光が消えた。
「そうなると、あの装置は場所でも時間でもなく、次元を越えた事になるな……。確かに計算通りではあるが、素直に喜べん」
「私が帰る方法は?」
「正直に言おう」
 白髪が揺れた。
「難しい。我々の技術では、安定して次元を越える方法は未だ発明されていない」
 分かっていたとは言え、ブルースは足から力が抜けるのを感じた。
「矢張りな」
「座標データは実験を行った時のまま残っている。それとあの機械を使えば或いは、と思うが」
 父の視線を受け、カルが手を振った。
「まだ修復作業中です。チームの話では、完全に機能が回復するまであと1週間は掛かると」
「見かけによらず繊細な機械でな。衝撃を受けるとすぐエラーが出てしまう。呼び戻すのに苦労した」
「衝撃、か」
 ブルースは、装置が落下した現場を思い出した。工場の屋根を付き抜け、地面にめり込んだあの様を考えると、相当なダメージを負っているだろう。
「それに、前の実験と同じ環境を設置したところで、同じ場所に到着するかは不明でしょう」
「…その通りだ、カル」
「少なくとも私は」
 ブルースは椅子から立ち上がった。
「装置が直るまでの1週間、帰れないと言う事か」
「……そうなるな」
――冗談ではない。
 1週間も留守にすれば、ゴッサムはどうなるのか。ロビン1人をあの街で戦わせるなど言語道断だ。ナイトウィングにはブルードヘイブンがある。例えその他のヒーロー達が守ってくれるとしても、ゴッサムはバットマンの街なのだ。人々を守るのが大事なのだと理解しているが、彼らに街を守らせると考えただけで、喉に石の詰まったような気分が襲って来る。
――特に、あいつにはゴッサムを任せられん。
「もう1つ装置を作るとしたら、どれ位かかる?」
「どう計算しても1週間以内には不可能だ」
 これだけ科学技術が発達しているのに、とブルースは密かに唇を噛む。手も足も出せないとはまさにこの事だ。
「装置が修復したら、出来る限りの事をするつもりだ」
 ジョー=エルもまた、椅子から立ち上がった。
「それまでどうか待っていてくれ、バットマン」
「……承知した」
 今はこの誠実なクリプトニアンを信じ、待つしかない。込み上げる苛立ちを味わいつつ、ブルースはぐっと顎を引いた。



「衝動を抑えかねるお気持ちは良く分かりますが、今はただ待つのみです」
「分かっているよ、アルフレッド」
 普段ならばブルースの専用席である、ケイブのコンピュータ前。そこに座しながら、ティムは先程からキーボードを叩き続けていた。
「だけど、今は出来そうな事が見付かっている。だから動いているのさ」
「と仰いますのは?」
「バーバラが教えてくれた。“スーパーマンがクリプトンの機械を調べている”ってね」
 振り返って椅子の背から顔を出すと、再びティムは画面に向き直った。
「ブルースの事だからクリプトン関連のデータも、ここに入れているんじゃないかって――ああ、これ彼には内緒で頼むよ」
「…では、これから口にチャックを付けて参りましょう」
 そう言ってアルフレッドは背を向ける。にっこり笑ったティムは、しかし唇を引き締め、孤独の要塞にも劣らぬケイブのコンピュータと苦闘し始めた。



 頬を膨らませ、ディックは受話器に語りかけた。
「でもさ、ゴッサムはバット…いや、僕らの街だろう?そこを僕が守りに行かないってのは、やっぱりおかしいよ。しかも僕が行かないだけならともかく、他のヒーローが守りに行くなんて」
『だからってブルードヘイブンを放っておく気なの?』
 受話器の向こうにいるバーバラは、今頃ぎゅっと眉間に皺を寄せている事だろう。溜息交じりの声に、こちらも同じく眉根を寄せ、ディックは反論する。
「放っておく訳じゃない。今日は早めにパトロールに回ったしさ」
『真夜中に全裸で銃を乱射する馬鹿だっているのよ?そんな奴が現れたらどうなるの?』
「……そりゃそうだけどさ。でも、ティム1人にする気かい?」
『まさか!』
 バーバラの声に、ディックは思わず受話器を耳から離した。
『万が一何かあったらどうするの!幾らしっかりしているからって、まだ10代なのよ10代!万が一何かなくたって、彼に知られたら縁切られるわよ?!』
「じゃ、じゃあどうする気なんだよバブ」
『だから他のヒーローに頼む、って言ってるんじゃない』
 そうか、とディックは項垂れた。確かにそれならば一理ある話だ。
『私だって、他の人に頼みたくないわよこんな事。彼らもメトロポリスで忙しいみたいだし?』
「じゃあ僕に頼んでくれよ」
『それはもっと嫌だから却下』
「うわ、酷い!」
『私が動けたら良かったんだけどね』
 聞こえて来た呟きに、ディックは慌てて受話器を持ち直した。あえて明るい声で言う。
「でもさ、ひょっとしたらブルースが帰って来るかもしれないよ。いきなり帰って来て“何でお前らがここにいるんだ誰が頼んだんだ”って騒ぐかも」
『そうね。あなたがいても騒ぐでしょうね、ディック?』
「う」
――否定出来ない。
 師匠の渋面がディックの脳裏いっぱいに花開いた。
『じゃあそういう事だから、ゴッサムに来るんじゃないわよ』
「まるで敵みたいだよ、バブ……」
『そう?…それじゃあね。早く彼が帰って来るよう、祈ってて』
「……ああ、祈っているよ。皆によろしく」
 かちゃりと受話器の置かれる音。そして通話の途切れる音が、部屋に響いた。
 軽く受話器を置き、ディックは長い長い溜息を天井へ向かって吐き出す。
「ったく、どこにいても振り回してくれるよ……」
 窓の外には広がる闇は、もう1度夜の翼が羽ばたく時だとディックに告げていた。

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