――闇が恋しい。
天井は白、壁も白、埃1つ落ちていない床も白、曲線で構築された家具も白。巨大な窓の外には赤い太陽と青空。そこから視線を下げると案の定、白い街並みが広がっている。
研究室への廊下に比べれば、陽光があるだけまだ楽だ。ブルースはしかし、この部屋に異なった息苦しさを覚えていた。装飾と闇に包まれたウェイン邸に比べ、ここは余りにも明る過ぎたし、簡素に過ぎた。
ブルースはそっと足を踏み替えると、再びドア――形はウオッチタワーのものに似ていた――に耳を付ける。
聞こえて来るのは、ジョー=エルの声とその妻、ラーラの声だ。居住空間に案内され、対面の挨拶を交わしたのだが、彼女の瞳はカル=エル同様、警戒で溢れ返らんばかりだった。それでもあからさまに不快な表情や、言動を発さないだけ、息子よりは大人という事なのだろう。
「……からと言って、……でも…」
ただ、美しい金髪をした彼女は、矢張りブルースを預かるのに抵抗があるようだった。ブルースがこの客室に入ると、すぐジョー=エルに不満や反論を語り始めたようである。
「さないか……なのだから……」
途切れ途切れに聞こえる声からは、感情の高まりなどは受け取れない。おそらく2人とも無表情に、淡々と話し合っているのだろう。ブルースが今まで出会ったクリプトニアンは片手ほどだが、皆、表情の変化に乏しい。風に揺らぐ水面の方が、もう少し変化に富んでいるのではなかろうか。彼らの中では表情豊かと言って良いジョー=エルさえ、ジョン=ジョーンズよりも無表情だ。
ブルースはドアから耳を離した。他人の家庭に波紋を投げかける気はない、出て行くと言おうとも考えていたが、ジョー=エルにとってブルースを預かるのは、実験失敗に対する罰なのだ。もしかすると罪滅ぼしの意も兼ねているかもしれない。
――なるようになるだろう。
そう思うしかなかった。
なるべく会話に耳を貸さないよう、ブルースは広い室内に注意を向けた。
壁際に純白の寝台があり、窓の側には一本足の丸いテーブルが置かれている。そこに並べられたスツールの一脚に、ブルースは腰を下ろした。途端に、眠気が襲って来る。
見慣れない物や状況、人の中で、肉体よりも精神が参ってしまったようだ。ようやく1人になれた安心もあるだろう。それでもブルースは首を振り、しっかりと瞼を開けておいた。
正面に広がる窓の景色は、あの空飛ぶ円盤から見たものと大差ない。しかし幾らか距離が縮まっている分、細かい所が見て取れる。座っているスツールの高さも、街並みを見下ろすのに最適だった。
子供の模型を眺めている気分だったが、ある事に気付いてブルースは眉根を寄せた。
――地面がないのか、この星には。
白い街は地平線の彼方まで連綿と続いている。建物の密集具合には違いがあり、広場のような空間も見えるが、そこにも敷き詰められているのは白だ。剥き出しの地面も、木々の緑もない。白一色である。
地球が彼らの手によって崩壊したとの話を聞いたからだろうか。昼の光を受ける都市が、ゴッサムよりも残忍なものに見える。視線を移したブルースの目を、今度は晴れた空が射た。
地球の空よりも色が強く見えるのは、赤い太陽のせいだろうか。夏の日でもないとお目に掛かれないような色合いに既視感を覚え、ああ、とブルースは声を上げかけた。
――クラークの瞳と同じ色だ。
少し躊躇ってから腰を上げ、窓際に立つ。澄明な青さが視界いっぱいに広がる。
怒気を浮かべていた瞳をまざまざと思い返しながら、それでもブルースはそっと、窓越しの青に指先を当てた。
「そんなに空が珍しいのか?」
「!」
振り返りざまバッタランに手を掛けた。だが振り返り切る寸前、手を放す。その代わりに、ブルースは視界に入ったカル=エルを睨み付けた。居竦むかと思ったが、カルは僅かに肩を揺らしただけで、臆する事なくブルースに視線を返して来る。
「何か用なのか」
「母が出て行った」
「……は?」
意味が分からず聞き返すブルースへ、カルは眉根を寄せた。しかし続けて発された声からは、揺れる感情の欠片も受け取れない。
「素顔も分からない不気味な奴と、一つ屋根の下に暮らすのは耐えられないそうだ。荷物を纏めて出て行った。父がその後を追っている」
エル家の崩壊、と小説の題名じみた一文が、ブルースの脳裏にちらついた。予想以上の展開に、脳が追いついていないようだ。
「…つまり、私の所為でご夫婦が離婚か」
「それを止める為にこれから家を出る。この室内にある物は自由に使え。だが、ここからは決して出るな」
「…つまり、この部屋で留守番をしていろという訳か」
「留守番?」
クラークと同じ顔が嘲笑する所など、一生に何度も拝めるものではあるまい。
「君の星では、危険人物の拘禁を留守番と言うのか?」
クラークと同じ声が込み入った皮肉を言う所など、一生に何度も聞けるものではあるまい。
「まあ良い。トイレはその奥にある。もう1度言うがくれぐれもこちらには」
「出たら」
空気が静かに震える。
「どうするんだ?」
言い終わると同時に床を蹴り、一気に相手との距離を詰める。片足が床に着地する寸前、握っていたケープの端をブルースは振り上げた。無数の犯罪者を脅えさせたそれは、クリプトニアンの視界にゴッサムの夜を生む。
「うわっ!」
突如として襲い掛かった暗闇を、カルが振り払う頃には――傍らを潜り抜けたブルースが、既にその背後に立っている。
「悪いがカル=エル、もう1度聞こう。その部屋を出たらどうすると?」
「貴様……!」
「目から熱線でも出すか?さぞ見物だろうな」
――こんな子どもじみた所業は、馬鹿馬鹿しい限りだ。
理性の声は、しかし、ふつふつと沸き立つ怒りを抑え切る事は出来ない。あえてカルの拳が届く位置まで迫り、ブルースは指を突き付けた。
「良いか、私は自分がどう見られるか理解している。危険人物、野蛮人という言葉にも我慢は可能だ。そんな男を滞在させるのだ。不快で堪るまい。心情は分かる。だがな」
いつもの口論のように顔を近付ける。いつもならばここで、挑むようにクラークも顔を寄せる筈だが、当然カルは顔を引く。その動作に理性は停止信号を掲げるが、ブルースは止まらない。
「君が相手ならば話は違う。私に礼節と謙虚さを求めるならば、その顔と、その声で、そのような口は――」
とん、とカルの胸に指を置き、ブルースは言った。
「2度と叩くな」
答えも待たずさっさとカルの脇を歩き、再びブルースは室内に入る。
「早く閉めろ」
「……っ!」
がん、とカルが壁を叩く。ボタンがそこにあったのだろう。ドアはすぐに口を閉じた。
ブルースは踵を返し、先程のスツールに腰を掛けると、今度こそ机に突っ伏した。
「……何をやっているんだ、私は」
思わず声に出してしまう。
無礼な発言に傷付いた、という理由は半分しか当たっていない。残り半分、いやそれ以上を占めるかもしれないのは、カルにとっては八つ当たり以外の何物でもあるまい。
――クラークはあんな顔を見せない。
――クラークはあんな事を言わない。
――クラークは……。
髪を掻き毟る代わりに、ブルースはマスクを強く握り締めた。
いっそ彼と全く関係の無い世界に飛ばされたかった。人類に全く似ない種族の、言葉の分からない星にでも飛ばされてしまえば良かったのだ。
別人だと理解している筈なのに、あの瞳が、唇が、ひどくブルースの心を乱す。もうクラークに会えないかもしれない、最後に交わしたのがあんな口論だったという事も、情動のぶれに拍車を掛ける。
――もっと優しくしてやれば良かった。
らしくもないとブルースは首を振る。
目の奥が熱いのは先程、怒鳴ったからなのだと、必死で自分に言い聞かせた。
文字の羅列を追う作業には慣れている。ただ所々に現れる単語がひどく難解で、何度もデータベースに索引を掛けねばならないのが厄介だった。地球では未だ開発されていない技術、そしてそれに関する専門用語なのだから、仕方ないと言えば仕方ないが、気ばかり急く。
ようやく全てに目を通し終えたクラークは、オラクルを呼び出し、ウオッチタワーとの回線を開いた。
『スーパーマン?何か分かったの?』
「ああ」
画面に広がるワンダーウーマンに、良く見えるようクラークは印刷した紙の束を振る。
「解決する方法はともかく、あの機器がどういう代物かは分かったよ」
『マジで!何だったんだ一体?!なあなあ早く教え』
『フラッシュ!大人しく聞け!』
赤いマスクが画面横に顔を覗かせるも、すぐにその首は、緑の光で出来た手に捕まえられた。途端にフラッシュは画面外へと消え、ワンダーウーマンが現れる。
『……さ、聞かせて』
「ああ。…ファントムゾーンという物を、聞いた事があるかい?」
画面の向こうから、途切れ途切れに流れていた騒ぎ声が、ぴたりと止まった。
『いいえ、ないわ。クリプトンの技術なのね?』
「そう、一種の異次元装置だ。囚人の収容に使われていた」
クリプトンには死刑制度が存在しない。その代わりに適応されるのが、ファントムゾーンへの禁固である。
「あの機械と良く似た形が、発生装置の試作品として出て来たんだ。…見てくれ、ジョン」
クラークがボタンを押すと、機械の立体映像が浮かび上がる。ダイアナに代わって画面前に立ったジョンが、それを見て深く頷いた。
『似ている。間違いないだろう』
『じゃあバットマンは、そのファントムゾーンに閉じ込められたって訳?』
「いいや」
ホークガールの声にクラークは首を振った。ボタンを押し立体映像を消す。
「データを見る限り、この試作品は失敗作だったようだ。ファントムゾーンを作り出す事は出来ず、しかし代わりに――空間を超えた」
『……タイムスリップってやつ?』
再びホークガールを押し退けるようにして、フラッシュが現れる。クラークはいいや、と彼の言葉を否定した。
「時間を飛び越えたかは分からない。ただこれによると、転送された人物はクリプトンと異なる星に到着したそうだ。生い茂った森のど真ん中にね」
『バットマンが地球にいない、と言う事ははっきりしたな』
グリーンランタンが、フラッシュを引っ込めさせながら言う。
「そうなるな。どうしてこの装置が地球に来たのかは、まだ分からない」
『痛ぇぞランタン!…理由なら簡単じゃあないのか?』
「何故だ、フラッシュ?」
だって、とグリーンランタンの隙間から顔を出し、フラッシュは言う。
『その装置って、空間も越えちまうんだろ?きっとどっかの誰かが作って、失敗して地球に落ちちまったんだよ!』
「だがクリプトンの技術は特殊な物で、どの惑星にも流出は――」
『じゃあクリプトンから来たんじゃね?』
クラークははたと動きを止めた。
返事をする間も待たず、フラッシュはランタンに今度こそ引っ張られていく。
「そうか」
『スーパーマン?』
「別の世界から……クリプトンが爆発していない世界から、あれが落ちて来た可能性もあるんだな」
技術ならば別の星で発展した可能性もある。しかし、装置からはクリプトン語がしっかりと聞こえて来た。クリプトンは数百年に渡り、他星との交流を控えていたのだ。複雑極まる発音を要する、あの言語を話せるのは、今の宇宙にはクラークしか存在していない。
『平行世界からあれが飛来して来たと言うのか?』
ジョンの言葉に、躊躇いながらもクラークは言う。
「可能性は0じゃないと思う。君の星にそういった技術は?」
『転送装置ならば幾つも存在していたが、世界を飛び越えるものは聞いた事がない』
「そうか……」
『サナガーでも聞いた事はないわね。あなたは、ランタン?』
『俺も無い。だが』
緑の指輪をちらりと見てから、グリーンランタンは答える。
『宇宙では、何が起きても不思議じゃないだろう』
『別世界に行ってしまった人間の話なら、良く聞くけど』
ワンダーウーマンが言った。彼女自身が生ける神秘のような存在である。何せ神の祝福を受け、土から産まれたという出自の持ち主なのだ。
『異星人信じて平行世界信じないのって、差別だろ。それにあんただって空間を飛び越えた事があるよな?スーパーマン』
画面の向こうから赤い指が突き付けられる。思わず苦笑を浮かべて、クラークは頷いた。
「まあね。……で、問題はもう1つ残っているんだが」
『バットマンの助け方?』
「そういう事さ」
『何かそこには載っていないのか』
「それも調べてみたよ」
溜息を吐き、クラークは再びボタンを押す。今度は先程と異なり、リモコンのような形をした立体映像が現れた。
「呼び掛ける事は不可能に近いけれど、これを使って座標信号を送る事は出来る」
『噛み砕いて言ってくれない?』
「つまり、帰って来る時はここに来い、と叫ぶようなものさ」
ブルースがどこにいるのか具体的に分からない上、転送装置そのものが手元にないのだ。強制的にこちら側へ呼び戻す事は出来ない。
「僕達に出来るのは、信号を送って待つ事だけだ」
画面の向こうで、JLのメンバーが肩を落とす。
皆、口にはしなかったが、既にブルースが死亡している事も考えられるのだ。せめて生存だけでも確認する方法はないかと、クラークも舐めるように資料を集め、読んだ。しかし出来る事は、信号を送って待つだけなのである。
『その機械は』
ジョンが顔を上げて言った。
『作れるのか、スーパーマン?』
「ああ。時間は掛かるけど…作れると思う」
『設計図やデータを、ウオッチタワーにも送ってくれ』
「え?」
目を瞬くクラークに、ジョンは静かに告げる。
『1つより2つあった方が、万が一の場合にも安心だ。バットマンにも捉え易くなる』
『それにさ』
ジョンの肩に顎を乗せて、フラッシュが片目を瞑る。
『アンタ1人に何から何まで任せるのは、気が引けっからな!オレだって一応メカニックだし?』
『コーヒーメーカーも直せなかった奴が、何を言うやら……』
『あれはハイテク過ぎて驚いたからだっての!』
『そう言う訳だからよろしくお願いね、スーパーマン。待っているわ』
ずずっとグリーンランタンとフラッシュを退けて、ワンダーウーマンが顔を出す。
『何かあったら、また連絡して。こちらからも定期的に報告するから』
『1人で閉じこもって、バットマンみたいになるんじゃないわよ』
ホークガールがにやっと笑った。
「…分かった。これからデータを送るよ」
知らず知らずの内に、笑みが顔に戻って来る。軽く画面に手を振ってから、クラークは通信を切り、データ転送を始めるべくキーボードを叩き始めた。