「あの馬鹿が……!」
 薬品の臭いと煙に咳き込みながらも、何とかそう呟き、ブルースはずんずん奥へと入っていった。
 既に黒煙はブルースの腰ほどまで溜まっている。あれから爆音は聞こえないのが逆に不気味だ。
――人には散々、危険だ何だと言って来る癖に。
 ブルースは強く奥歯を噛み締める。クラークへの苛立ちと、カルへの怒りと、2人を重ねている自分への呆れも混じっていた。しかし複雑な心境は、視界の先に踊る赤い炎が、一時的に打ち消してくれる。
「カル=エル!いるのか!」
 答えはない。ブルースは思わず足の進みを早めた。
 四方には火の手が上がっている。それまでは無かった炎の熱に、僅かに躊躇ってから、ブルースはドアの中に入った。
 壁は煤に塗れ、所々に穴が空いている。巨大な机が裏返しになって横たわり、壁に並べられた棚の1つは、これも床にべったりと寝そべっていた。その隙間からは何やら液体が流れ出ている。部屋の片隅に置かれた黒い器具は、コードが垂れ下がり、ひっきりなしに火花を上げていた。
 奥へ繋がるドアが粉々になっている所を見ると、おそらくそこが事故の現場なのだろう。黒い煙の隙間からちらちら見えるのは、火柱のようだ。あと数分もすれば、炎もこの部屋へとやって来る。
「そこに……誰かいるのか?」
「!」
 その器具の横にブルースは駆け寄った。布を口に当て、背中を丸めたカルが座り込んでいる。腕を掴み起こそうとすると、彼はぎゅっと眉を顰めた。
「足に傷を受けた。歩けない」
「どちら側だ?」
「右足が……って」
 そこでようやく、カルは相手がブルースという事に気付いたらしい。見開かれた青い瞳に、微かな満足を覚えると、ブルースは彼の左腕を肩に回した。
「何故お前がここにいるんだ?!」
「喧しいぞ。黙って立て」
「だから立てないと…うわ」
 なるべく足に負担を掛けさせないよう、注意してブルースはカルの体を引き上げた。重みがブルースに圧し掛かる。
――クラークより少し軽いな。
「そう言う君は、何故ここにいる?1度は出たのだろう」
 立ち上がった2人は慎重に、しかし急いで歩き出す。
「奥に助手の1人がいたんだ」
「…それを助けに?」
「ああ。彼を送り出した後、爆発に巻き込まれて」
 引きずっている右足をブルースは眺めた。出血はさほど酷くないが、妙な方向に曲がっている。骨折だろう。固定出来れば良いのだが、時間が無い。
「置いていく事は思い付かなかったのか?」
 わざとブルースは意地悪く問う。きっと鋭くなった双眸がブルースを睨んで来た。
「人が危険に晒されているんだ。見殺しに出来るか」
「……」
 どこかでまた、コードがばちりと爆ぜた。
「悪かった」
 見直した、と喉の奥で呟いて、ブルースは足を進める。濃度を増した煙の所為で、目と喉の奥が痛い。カルも青い顔で咳き込んでいる。これほど出口まで遠かったかと、ブルースはドアを潜りながら痛感する。
 背後で再び爆音が轟いた。今度のものは大きい。
「……まずい」
 振り返った2人の青い瞳に、迫り来る炎が映り込んだ。

 1度カルから手を離し、ブルースは通ったばかりのドアへと走った。取り付けられたパネルのキーを乱雑に押すと、もどかしい程ゆっくりと扉が閉まっていく。これで多少なりとも、炎が弱まれば良いのだが。
「しっかり捕まっていろ!」
 そう叫ぶとカルの返事も待たず、ブルースは彼を抱き上げた。
「な、ちょ、待て!」
「時間がないんだ我慢しろ!」
 かつてクラークとこんなやり取りをしたと、思い返す暇はない。両腕に掛かる体重よりも、むしろ体格の方が邪魔だった。ブルースは煙の中を突っ切り、次のドアを抜けた所で、前のドアが弾け飛ぶ音を耳にした。
――間に合わん。
 ブルースはカルをケープで包み込み、ベルトのスイッチを押した。
 ケープが耐熱効果を帯びた直後、ブルースは、衝撃と炎が襲い掛かるのを感じていた。



「バットマン」
「ブルース」
 目が覚めた。
 ブルースはいつものように、ケイブの椅子に座っていた。
「起きたかい?」
 背もたれに大きな手が載っている。指先から手の甲、手首、腕へと視線で辿っていくと、そこにはクラークが立っていた。
――何だ、お前か。
「そうだよ。随分と魘されていたな」
――奇妙な夢を見ていた。
 どんな夢だったか説明しようと、ブルースは口を開きかける。が、クラークは微かに眉を寄せ、首を振った。
「悪いが聞いている時間はないんだ。もう行かなきゃならない」
――そうか。どこへ?
「クリプトンに」
 思わず息を止め、ブルースはクラークを仰ぐ。彼は真正面からブルースを見つめる事なく、踵を返した。赤いケープの裾が優雅に揺れる。
――待て、クラーク。
「僕は帰るよ。もう地球には戻って来ない。さようならブルース」
――待て!
 椅子を立ち追いかけようとするブルースに、クラークの瞳が真紅に燃え上がった。
「近寄るな」
 瞳から発された熱線が、コスチュームを燃やし、肌を焦がし、骨まで達し――



「止めろ!」
「うっ」
 荒く短い呼吸をブルースは繰り返した。
 天井は白。壁は白。床も白。全て白一色の世界だ。ケイブではない。ブルースは自分の手を掲げた。湿布のようなものが巻き付けられている以外、特に変わりは無い。
――夢か。
 ようやく安心して、ブルースは深く息を吐く。
「…気が付いたか」
「ジョー=エル」
 その声にはたと横を向いたが、誰もいない。視線を下げていくと、床に座りこんだジョー=エルが、白髪頭を擦っていた。
――そう言えばさっき、悲鳴がしたが。
 右手に残っている手応えに、さっとブルースは青ざめた。どうやら起きざまに、思い切り振り払ってしまったらしい。
「す、すまない。大丈夫か」
「やや痛むが大事無い。それより君こそ、不具合はあるかね」
「不具合?」
 瞬きを繰り返す内に、ブルースの脳裏にはようやく記憶が戻って来た。
 ケレックス、移動装置、実験事故、そして爆発――。
 良く見れば、ブルースがいるのはあの宛がわれた部屋であり、ベッドの上だ。
 どこかに痛みや骨折はないかと、体をそっと動かしてみる。あの炎に巻き込まれたと言うのに、不思議と痛みはない。少しばかりの疲れが残っている程度だ。だが体中に、手に巻き付けられた湿布と、同じような物が張られているらしい。
「…どこも、痛まないが」
「それは良かった」
 安堵した様子でジョー=エルは頷く。椅子に座り直した彼は、傍らに置いてあった袋を取り出した。
「あ」
 半透明の袋の中には、ぼろぼろになったケープが仕舞い込まれている。
「これと君のお蔭で、私の息子は一命を取り留めた」
 ジョー=エルは深く頭を下げる。
「ありがとうバットマン。君は息子の恩人だ」
「…礼の必要は無い。たまたま居合わせただけだ」
「理由は何であろうとも、彼を救ってくれた事に礼を言わせてくれ。君は重傷を負ったのだ」
「重傷を?」
 ケープの破れ具合から見て、相当な手傷だったとは分かる。が、いかんせん、痛みを全く感じないのだ。実感が湧かないまま、ブルースは首を傾げる。
「怪我の程度を具体的に話しても良いが、気分を害するだろう」
「…遠慮しておく。治療は誰が?」
「私だ」
 医学にも精通しているのかと、感嘆の思いを込めてブルースはジョー=エルを見返す。しかし、そこではたとブルースは、ある事に気付いた。
 ケープは見せられた通りぼろぼろだ。自分が今、着ているものは、白いゆったりとした服である。恐る恐る指を頬に滑らせると、ケプラーの感触がない。
――素顔を見られた。
 ブルースが何を考えているかに、ジョー=エルも気付いたのだろう。彼は再び半透明になった袋を取り出した。ケープ同様、煤と焦げと穴で原型を留めていないマスク、一部が変色したベルトなどが、次々に現れる。
「素顔は私しか見ていない」
「不幸中の幸いだな……」
「再現するのに時間はそう掛かるまい。それまで、この星の衣服で我慢して貰えるだろうか」
「…分かった。貸してくれ」
 がさりと音を立て、ジョー=エルが一揃えの服を出す。意外な事に色は黒で、胸のマークはSではない。蝙蝠の形に良く似た紋様だった。
「君の為に作らせた」
 生地の手触りは心地良い。何度か指を往復させてから、ブルースはジョー=エルに頷いてみせた。
「何から何まで、すまない。礼を言うのはむしろ私の方だな。……そう言えば、ご子息は?」
「君よりも怪我の程度はずっと低かった。今ではもう」
 ジョー=エルは居間に繋がるドアを見やる。
「起きて動いている」
「そうか。良かった」
「君の目が覚めたら、礼を言いたいと」
 思わずブルースは目を丸くした。
――あの男が、礼を?
「良ければここへ呼ぶが」
「もう来ています、父上」
 ドアが開き、カルがさっさと入って来る。唖然として見詰めるブルースとジョー=エルに、彼は言った。
「鍵が開いたままでした」
「それは…すまない」
 くぐもった声でブルースに謝してから、ジョー=エルは立ち上がる。
「では、私は席を外そう」
 止める時間も無かった。ゆったりした普段の動作にも似合わぬ速さで、彼はドアの向こうへと消えてしまう。
 空いた椅子に、長い足を持て余し気味にしてカルが座る。
 ノックぐらいするべきだ、とブルースが口を開く前に、彼は先程のジョー=エルよりももっと深く首を下げた。
「助かった。……ありがとう」
「……」
 幾らかの照れが混じった、それでも真剣な声音に、ブルースはどう返事すべきか戸惑った。ほんの刹那、癖の強い黒髪を掻き回したい衝動が突き上げたが、当然、それも我慢する。
 しばしの沈黙があってから、静かにカルが顔を上げる。青い瞳に宿る色はひどく真摯で、ブルースをうろたえさせた。
「いや……私は元々いた世界でも、ああいう事を良くしていたから、礼には及ばない。その、慣れているからな」
――マスクを付けていれば良かった。
 そうすればもっと冷静な対処が出来ただろう。柄にもないと自嘲しながら、ブルースは気にするなと手を振っておく。
「慣れていても、だ。お蔭で僕は命拾いが出来た」
 父と似た事を言いながら、カルはじっとブルースを見つめて来る。素顔で相対するのは初めてだから、珍しいのだろう。マスクの下に顔があると、思っていなかった可能性もある。
「もっと年上かと思っていたが、そう変わらないようだな」
「…多分、君と同年代だ」
「怖くなかったのか?」
 ひたすら真剣で静かな口調が、クラークと重なる。そっと首を振り幻想を追い出してからブルースは答えた。
「恐怖心は何年も昔に克服した。今では殆ど感じない」
 虚勢に聞えぬよう、極力淡々とした口調で言葉を紡ぐ。
「それに、自ら死地に赴くのがヒーロ…我々の仕事だからな」
 納得したらしく、カルは頷く。良く見ると首元には、ブルース同様の湿布が貼られていた。矢張り怪我を負っていたらしい。
 その湿布に軽く手を当ててから、カルは立ち上がった。
「実験室の片付けに行って来る。何かあったら、あのケレックスに」
「分かった」
 白い服の裾が動く。その動きに、ブルースは数分前に見た悪夢を思い出し、目を瞑った。
「それと、バットマン」
 目を開くとカルが、こちらに背中を向けて立っている。
「昨日はすまなかった」
 それだけ言うと、彼はドアを開いて出て行ってしまう。
 名前を呼ばれたのは初めてではないかと、そう思いながら、ブルースはベッドに横たわった。

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