「顔を隠す物?」
「ああ。何か、マスクの代わりになる物は無いだろうか」
 ジョー=エルは軽く首を傾げて、答えではなく疑問をブルースに返す。
「隠したいのかね」
「…落ち着かないんだ」
 剥き出しになった頬をそっと撫でながら、ブルースは答えた。
 周囲は静かである。ブルース達が回収された直後から、実験室には修復班が入ったそうだが、離れているせいで作業音は聞こえない。体の傷も、一晩眠った後は、痕さえ残らず完治していた。お蔭で事件があった事すら、その内に忘れてしまいそうである。
 ただ、その影響ばかりは未だに続いている訳で。
「ここで隠すようなものか?」
 ひょい、とカルが差し向かいのドアから顔だけ覗かせる。彼は実験室の破損の為、当分は室内で論文を纏めるそうだ、とジョー=エルはブルースに教えてくれた。
 つまり、ブルースは1日の殆どを、彼と過ごさざるを得なくなったのだ。
「四六時中あの格好で過ごしている訳ではないのだろう」
「それは、そうだが」
「ならばそのままで良いじゃないか」
 カルの顔が引っ込み、ドアが閉まる直前、彼の声だけが居間に響く。
「僕もその方が落ち着く」
「……」
――深読みするな。
 マスクとタイツを着た男が、同じ家の中にいるのは落ち着かない。そういう事だとブルースは自分に言い聞かせた。つい妙な方向に行きがちな思考は、クラークとの付き合いのせいだろう。
「遮光目的のゴーグルならばあるが、それで構わないか」
「あ、ああ、貸してくれ」
 ドアに向けっ放しだった視線を、ジョー=エルの顔に移し、ブルースは頷いた。

 ジョー=エルが仕事に出掛けると、室内が益々ひっそりとして見えた。
 渡されたゴーグルは、地球のサングラスと殆ど変わりない形をしている。異なるのは遮光レベルを変化出来る点である。ブルースは目盛りを最小にした。それだけでも、辟易していた赤い陽光が緩和される。
――登場人物が全員、こんな格好をしている映画があったな。
 映画館には全く足を運ばないブルースだったが、ディックやティム、それにバーバラは良く行っていた。居間にある広い机の上に、各自の収穫品と称して新作旧作のパンフレットや、DVDケースを並べていたのを思い出す。そしてああのこうのと、三者三様に批評を始めるのだ。
 ブルースが交際した女優の名が、パンフレットの中に混じる時もあった。見付けるのはティムだったが、からかい始めるのはディックで、人の事を言える立場かとバーバラに指摘されていた。
 先日、彼らの支持を得たのは、ある殺人鬼が主人公の話だった。アメリカ上流階級出身の殺人鬼が自分を思い出させたらしい。今度DVDを持って来るとバーバラが言っていたが、こんな事になってしまってはしばらく鑑賞出来ないだろう。いや止めた方が良い、絶対に見せるなと反対していたロビンズにとっては、有り難いかもしれないが。
 彼らは今頃、ゴッサムやブルードヘイブンの治安維持に汗を流しているのだろうか。それとも、各自の私生活を生きているのだろうか。思いを馳せるしかないもどかしさに、ブルースは拳を握り締めた。
 部屋に戻ろうと足を踏み出す直前、ドアの開く音がした。
「まだそこにいたのか」
 少しだけ驚いたような表情をして、カルが言う。悪いか、とブルースは答えようとしたが、口を噤んだ。つかつかとカルは歩み寄って来る。
「そう言う君は、どうしてここに?」
「計算が煮詰まった。気分転換だ」
 そう言ってカルは右手を上げる。白い紙が数枚、そこには握られていた。
「計算機は使わないのか」
「手書きの方がやり易い」
「…古風だな」
「父の影響だ」
 窓に面した机のスイッチを押し、椅子を引き出すと、カルはそこに腰掛ける。邪魔になるかと踵を返しかけたブルースだが、ふと気になって尋ねてみた。
「君もお父上と同じ科学者なのか?」
「まだ志望の段階だ。あと3つほど博士号を取らなければ」
「……3つ?!」
「そうだ」
 おかしいのか、とカルが見上げて来る。
「私のいた世界では、専門分野1つの博士課程だけで十分」
「1つだけ?!」
 今度はカルが叫んだ。大きな目が何度も瞬きを繰り返す。意外と表情豊かだとブルースは思った。
「信じられない。科学議会に認定されるには、6つの分野で博士号を取る必要があるんだぞ」
「6……」
 ならばジョー=エルが医学に精通しているのも納得である。唖然としているブルースに、カルは新しく椅子を出した。
「座ってくれ。君の世界の学術界はどうなっているんだ?」
「…とりあえず、この星の制度を話してくれないか」
 お互い衝撃に頭を振りながら、2人は肩を並べて座った。

「つまり、議会認定科学者と、認定されていない博士がある訳か」
 30分は話し合っただろうか。ブルースはようやく制度の違いを納得し、深く頷いた。
 クリプトンでは科学議会がすなわち行政府のようなものらしい。そこで認定された博士――科学博士とは限らない――は議会に入り、経験を積んで後、星の運営に携わっていくという。無論そこまで辿り着くには、膨大な量の勉学と共に、莫大な金銭が必要である。そしてそれ程の金銭を惜しみなく使えるのは、議会に入っている科学者を初めとした、ごく一握りの者に過ぎない。
 ジョー=エルが以前、「身分制度と似たような状態」と言っていたのは、この事だったのだろう。
「…お父上は物凄い人物だな」
「父は天才だからな。30歳前に認定を受けたのは、あの人が史上初だ」
 誇らしげな口ぶりとは裏腹に、カルの目元はどこか暗い。矢張り周囲からの期待や圧力が大きいのだろうか。
「君もお父上の影響で科学者を?」
「いや、エル家は元々が科学者の家系なんだ。叔父のゾー=エルも来年には認定を受ける。…決められた道だ」
 そう言うからには鬱屈があるのだろう。自分の人生が既に敷かれているのは、傍目から見てどれほど幸福なものであろうとも、気持ちの良いものではない。ブルースにも少なからず理解出来る。
「君のお父上も、君と同じような事をしていたのか」
 憂いを振り払うようにカルが尋ねる。ブルースは首を横に振った。
「いや……父は医者だった」
 瞼の裏には、暖炉の上に掛かった肖像画が浮かんでいる。重たいタッチで描かれた父の顔は、ウェイン邸の薄明かりに照らし出されると、まるで世の苦悩を代弁しているようだった。
「ならば何故、自警団に?」
 こんなやり取りをクラークとした記憶がある。お互いに出会って間も無い頃で、探りを入れる、と称するのがしっくりする雰囲気だった。その時は確か、話すかどうか迷った筈だ。しかし、今は――
「幼い頃、両親が強盗に殺された」
 胸に広がる淡い痛みを感じながらも、ブルースは話を続ける。
「犯罪と戦う決心をしたのはそれからだ。以来、修行してこの道に入った」
 視線を上げると、カルは真剣な眼差しで聞いていた。ブルースはその顔付きに、不意に話してしまった事への戸惑いを覚えた。誤魔化し様はあったものを、何の躊躇いもなくすらりと口に出してしまった。
 既に1度、クラークへ話してしまったからだろうか。それともこの青年が見せた微かな鬱屈に、親近感を抱いてしまったからだろうか。どちらとも付かない思いに翻弄され、ブルースはただ、窓の外に目をやるしかない。
「…何か飲む物でも持って来よう」
 そう言ってカルが立ち上がる。ブルースが断る間もない早さだった。
 衣擦れと靴音を立て、彼は奥へと行ってしまう。
――あの炭酸飲料だけは勘弁願いたいと、言えば良かった。
 数分後、弾ける舌触りと強烈な風味を、反省と共にブルースは喉へ流し込んだ。



「時間と事件は待っちゃくれないのよ、クラーク」
「…分かっているよ、ロイス」
 ミルクと砂糖がカップの中に注ぎ込まれた。ボタンが点滅したのを確認してから、クラークは取り出し口を開ける。斜め後ろに差し出せば、白い手が素早く受け取っていった。緑の紙コップに赤い唇が映える。
「ありがと。でもミルクが多いわ」
「それ以上減らすと胃に悪い」
「あら、“鋼鉄の胃”の異名を知らないの?さてはモグリね」
 はは、と力無く笑い、クラークは自分のコーヒーに口を付ける。ミルクの量は、ロイスの分よりもボタン1押しだけ増やした。普段なら2押しだが、今は健康と味より、カフェインの齎す覚醒が欲しい。
 ずり下がって来た眼鏡を人差し指で戻しながら、クリーム色の壁に軽く背中を預ける。眼前に広がるメトロポリスは、一服する時間など持たないと言う風に動き続けていた。
「何かあったの?」
「え?」
「遅刻やドジはいつもの事だけど、この頃ずっと顔色が良くないわよ。思いつめた表情してる時だってあるし」
「そ、そうかな」
 誤魔化すようにクラークが頬を擦っても、ロイスの表情から懸念の色は消えない。敏腕女性記者は額に掛かった黒髪をかき上げると、横目でクラークを見やった。
「無理するな、なんて言うつもりは無いけど、ちょっとは他人を頼りなさいよ。協力や手助けはあんたの得意技よね、スモールビル?」
「それは」
――ああ。
 クラークは思わずそこで口を閉じた。
 ブルースがいなくなる前、周囲と協力するよう彼に言ったのは、誰だったか?
――僕だ。
 勿論、これとそれとは話が別だ。だが数日前、自分がブルースに向けた言葉を、ロイスが自分に向けている。あの時は頼られる事ばかりを考えて、自分が誰かに頼る事があるのだと、ほとんど思いも寄らなかった。
 お前にも限界があるだろうと、まるで誰かが突き付けているようだ。
「…ありがとう、ロイス」
 空の紙コップをゴミ箱に入れながら、クラークはそう言った。
「近頃ちょっと、その、プライベートが立て込んでてね。何か余り眠れなくて」
「そうだったの」
 ロイスが横顔に視線を注いでいる。きっと真摯な、強い光を帯びた瞳で見ているのだろう。取材中の彼女の表情を思い起こし、だがクラークはそちらに顔を向けられない。
「仕事している時は考えないようにと思っても、やっぱり落ち着いていないからかな、すぐミスしてしまうし……迷惑掛けた上に心配させて、ごめん」
「ううん、気にしないで」
 頭を軽く振ってから、ロイスはぱっと明るく笑う。
「気にしなさ過ぎ、ってのも困るけどね。でも眠れない位悩んでいるなら、なおさら無理しない方が良いわよ?」
「うん。でも君に話せた事で、随分と楽になったよ。ありが――」
 クラークが言い終わる直前、爆音が周囲を揺らした。窓の外の一角から、たちまち黒煙が上がる。
「!」
「爆発?!事件よクラーク!すぐにじゅん、び……」
窓から振り返ったロイスの視界には、既に眼鏡の新聞記者はいない。
「クラーク?」
 立ち昇る一条の煙に向かい、赤いケープが空へと舞う。



 ブルースは何度も邪魔にならぬよう、席を外そうとしたのだが、そうしようとする度にカルの質問が投げかけられる。地球に住む人種や、ブルースの住んでいる国、その文化、生活、言語。文化学も学んだというカルの質問は、的確ながらも専門的な分野にまで切り込んでくる。ブルースも真剣に答えざるを得ない。
 答えついでに、クリプトンについてもブルースは尋ねていった。返って来る答えはクラークから聞いたものと被る場合も多いが、新鮮な話題も多かった。
「感情統制?」
「ああ。惑星崩壊の危機が発表された際、恐慌状態が巻き起こったそうなんだ」
 それがきっかけとなり、クリプトンは崩壊を免れた後は、大々的に教化を行ったという。「他星を越えた文明人としての節度を備えるべく」という目的で行われたその方法が、どうやら彼らの無表情を形成したらしい。
「…だが、ジョー=エルはそれ以前に産まれたのだろう?その割には」
「父の世代はより徹底した教化が行われた、と聞いた。あとは新生児……僕らの世代だな」
 それと、父は元からああだったらしい、とカルは付け足した。
「その所為で、エル家は統制の影響が薄いんだ。僕も感情の起伏が激しいとよく言われる」
「…まあ、そうだろうな」
 クリプトンに転送されてから初めて見た、科学議会長の顔をブルースは思い出す。あの能面じみた陰鬱な顔に比べれば、カルやジョー=エルがどれほど感性豊かに見える事か。
「君の星でそういった事は?」
「行われていない。一部の独裁政権下では、より消極的な方法で進められている場合もあるが……」
 それは人権無視だ、忌避されるべきだ、とは流石に口にし辛い。曖昧な語尾にすると、カルもそれ以上は突っ込んで来なかった。代わりに計算用紙に向かい、クリプトン語でメモを取り続けている。ブルースはクラークから教わった知識を総動員し、解読しようと試みたが、「文化」「他星」といった単語以外は殆ど読めなかった。
「計算は良いのか?論文に使うのだろう?」
「あんなの後で幾らだって出来る。君の話は今だけだ」
「最悪、ずっとこの星に居座る事になるがな」
「大丈夫だ」
 ブルースの顔を見つめながら、カルははっきりと答える。
「父はこの星最高の科学者だ。彼が全力を尽くすならば、不可能など存在しない」
 自信を通り越し、確信の領域にまで達した語調だ。言った相手が余人ならば、ブルースも冷えた言葉を浴びせ、怒りを引き出していたかもしれない。
 だがカルの瞳には、そんな皮肉を黙らせる光が宿っていた。ブルースは何も言わず、顎を軽く引くに留めておく。
「明日の議会でどのような決定が出されても、父の考えは揺らがないだろう。必ず帰還出来る。安心してくれ」
 炭酸飲料をまだ半分以上湛えたカップに、ブルースは指を滑らせた。
「そうだな。…その日を、待とう」
「その意気だ。ああ、お代わりは?」
「いや結構。もう十分だ。遠慮する」
「遠慮するな」
「させてくれ」
 押し問答をしながら、ブルースはカップを手に取った。カルもまた引かずに手を伸ばす。2つの動きはカップの上で1つになり、2つの手が一瞬、触れ合った。
「っ」
 かたん、と音を立て、カップが床に転がった。零れた淡い水色は、打ち寄せる波のように、白い床を侵していく。
「すまない、汚してしまった」
 ブルースはすぐさま椅子から降り、屈み込んだ。カップは幸い割れていないようだ。何か拭くものは、と視線を巡らすが、ティッシュもタオルも見当たらない。
「気にしなくても、ケレックスを呼ん――」
 カルの声がそこで不自然に途切れた。
 訝しさにブルースは顔を擡げる。カルは窓へ目を釘付けにしていた。窓の外に広がっていた青空が、半分ばかり翳っている。何かが空を覆い始めているのだ。
――雲か?
 影が室内に差し込む。雲にしては動きが速過ぎた。ブルースはゴーグルを取り去り、強く眉を顰める。赤い陽光がそれの一角を照らした。
 濃いグレーと藍色に塗られた金属板が、ブルースの視界に過ぎる。流線型のフォルムと尖った先端、巨大なエンジンが次いで現れた。窓の外は完全に覆い隠され、室内は一瞬、漆黒に彩られた。
 距離が近過ぎるのだろう。全貌が明らかになる間もなく、それは窓枠の向こうへと消え去っていった。しかし遠くにひとつ、またひとつと、同じものが窓の外に現れる。
「これは……?」
 彼方を飛行するその姿に、ブルースはJLの為に用意した機器を思い起こした。
――ジャベリンセブン。
 水中でも空中でも自在に動き回る飛行機。色や、何より大きさが遥かに異なっているが、流線型のフォルムには確かに見覚えがある。
 床に流れた炭酸飲料が、膝を濡らす。それにも気付かぬまま、ブルースは呆然と窓の光景を見つめていた。

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