第9章

火傷するほどに熱い風が門の中から飛び出した。4本の石柱に燃えていた炎が一気に吹き消される。柱が沈み始めるのと同時に、今度は門へと向けて嵐が巻き起こった。
光の円の向こうには、黒い穴がただぽっかりと口を開いているだけだった。何より先にダークサイドがその穴へ向けて飛ばされていく。
「きゃあ!」
しかしそれからすぐ、祭壇に横たわっていたバーバラの体までもが浮き上がった。
「バーバラ!」
ブルースは彼女の細い腕を掴み、引き寄せた。両腕でしっかりと抱え込む。しかしブルースの体までもが、風に負けてじわじわと門に近付いていった。地面に剣を立てようとしても左腕一本では上手くいかない。歯噛みするブルースの体をその時、力強い腕が覆った。
「しっかり捕まってくれ」
振り仰いだ先に輝くのは、真夏の空。
「…ああ。離すなよ」
「離す訳があるか」
切れて血と埃に塗れた薄い唇が、精悍な笑みを形作った。
『ぬおおおおおおお!』
轟音に視線を上げれば、ダークサイドがすぐ側の地面に手を食い込ませ、しがみ付いていた。
『認めぬ!我は認めぬぞ!戦いは未だ終わっておらぬ!』
風を押しやり吼える煉獄の炎に、ブルースは少なからず慄然とした。未だに地面は持ち堪えている。このままではこちら側に止まりかねない。
だが、白い靴底がその顔を踏み付けた。
『ぐおっ!』
目に当たったのかダークサイドは顔を歪める。その途端、地面から指がするりと抜けた。
「しつこい男は嫌われるのよ」
ブルースの腕の中で、魔王を足蹴にしたバーバラが胸を反らす。果たして無慈悲なる風に運ばれるダークサイドがその言葉を耳にしたかどうかは、永遠に分からぬままとなった。
ダークサイドを吸い込み終えた門がぴたりと閉まる。同時に風も止んだ。黄金の輝きはたちまち宙へと消え、満月を囲んでいた暗雲も次第にどこかへと流れていく。
「……やれやれ、ようやく終わったな」
術者であった故か、吸い込まれずに済んだルーサーがにやりと笑った。思わずブルースもクラークも、バーバラさえも眉を寄せる。
「誰の所為でこんな事になったと思っている?」
「少しは反省したらどうなんだ?!」
「恥ってものを知りなさいよ!」
3人の声を意にも介さぬ素振りで、ルーサーは口笛を吹きながら空を見上げている。しかしその前にクラークが立ちはだかった。ブルースはとりあえず剣を置き、この変態、と暴れるバーバラを左腕だけで押さえ付けておく。
「“破滅よりのもの”に今回のダークサイドだ。貸しが増えたな」
「…ふん、ようやく人間関係の貸し借りに目覚めたか」
それでもルーサーは悠々と両腕を広げた。
「しかしそれならもう1つ、君達側も我々に借りを作ったと思うがね?」
「どう言う意味……」
「そこの道化師だ。ほら」
突如として真横に現れた気配にブルースは身構えた。思わずバーバラから腕を離す。半ば抱きかかえられていた彼女は、きゃ、と小さな悲鳴を上げて地面に座り込んだ。
「ジョーカー」
「よおバッツィー。数分振りだな」
地面に置いていた剣をブルースは取り上げた。だが振りかぶる前にジョーカーがひらりひらりと手を振る。
「おいおい、助けてやったお礼がそれかい?」
「…本当にどうやってこの中に入ったんだ?」
あの石柱は結界の役割をも果たしていた筈だ。例えヴィランが次元を行き来可能だとは言え、ダークサイドほどの者が作る結界に入り込めると思えない。それでもジョーカーは、先程の行為が何かの冗談だとでも言うように、細い肩を竦める。
「そうさな、偶然の神の御業か、はたまた恋の翼のお蔭か」
「冗談は止せ」
言ったのはクラークだった。目がやや剣呑に細められている。彼に向けてにたりとジョーカーは笑った。
「冗談?俺の言葉が?まあ良い、あんたがそう思うなら、全ては――」
ふっとその姿が薄れていく。
「ハロウィンの所為ってやつさ。それじゃあな、ダーリン?」
「その呼び方は」
既に半ば以上空気に溶け込んだジョーカーを、ブルースは軽く剣で薙ぎ払った。
「止めろ」
最後に残った赤い唇の端が、三日月のように吊り上がり、消えた。
「あ!」
バーバラの声に振り向けば、ルーサーも同様に宙へと掻き消え始めている。
「待てルーサー!」
「悪いが俺もとっとと退散させて貰おう。今度会った時はお前の最後だ、スーパーマン」
人差し指でクラークの胸を指しながら、白いローブが風に溶けていく。忌々しげにバーバラが叫んだ。
「2度と来るんじゃないわよ、この3流ハゲ魔術士!」
「…安心してくれ。俺も君には2度と会いたくないよ、お転婆アリス」
ちっと舌打ちする音が僅かに聞こえ、それから完全に消え去った。寂寥を帯びた夜風が周囲を吹き渡っていく。
「それじゃあ村へ帰ろう。ゴードンさんが心配しているよ」
クラークの言葉にバーバラがこっくりと頷く。項垂れたまま、彼女は言った。
「助けてくれてありがとう。…それも、2度も」
「気にするな」
剣を鞘に収めてから、ブルースは彼女の背中をそっと押した。恐る恐る見上げて来る瞳に頷いてやる。
蒼白だった頬に再び薔薇色の輝きが戻っていく。その様に安堵したブルースは、クラークへと一歩踏み出し――
緊張の糸を解かれて甦った激痛に、力無く地面へと倒れ込んだ。
「バットマン?!」
「ブルース!」
――だから人前でその名を呼ぶなと、あれ程
言っただろうに、と心中で呟き終えるより早く、ブルースは意識を手放した。

design : {neut}