剣を抜いた。どのヴィランにも等しく効いた剣だ。この世に留める力はともかく、傷のひとつは必ず得られる。そう信じて、こちらに向けられている巨大な背中に斬り付けた。
切っ先が僅かとは言え食い込む。そのまま剣を進めれば――
『…貴様も贄か』
夜空が見えた。続いて4本の柱と、その頂で燃える煉獄の炎が。内側から込み上げる物を吐き出して、ようやくブルースは自分が宙を飛んでいる事に気付いた。
見る見る内に近付く地面とぶつかる。下になった右腕が嫌な音を立てた。しばらくは痺れ以外の何も感じなかったが、息を吸い込んだ瞬間に全身が燃え上がった。指1つ動かせないような痛みが呻く声さえも奪う。
『だが、贄と言うには卑小過ぎる』
それでも屈辱と、伴い浮かぶ怒りだけは明瞭だった。足掻きながらブルースは地面に左手をつけ、膝に力を入れた。煉獄の主を睨み付ければ、ほうとでも言うようにその岩じみた顔が綻ぶ。
『良い顔だ。その誇りと胆力に免じ、苦しまずに殺してやろう』
太い首に2本の腕が巻かれた。青い鎧は既に幾つか砕け、腕や足から落ちている。だが彼のシンボルを付けた胸部だけは、無数のひびを作りながらも未だに持ちこたえていた。
「彼に、触るな」
青い空を宿した瞳が、たちまち夕暮れと朝焼けの茜に変わる。太陽の熱がダークサイドの頭部を焼いた。
『ぐっ!』
「太陽の味はどうだ?!」
ダークサイドが地面から持ち上がる。クラークが目から熱線を出したまま、魔王を地へと叩き付けた。立ち上がろうと手足に力を入れたブルースの肩に、手が回る。
「しっかりしろ」
「……1人、で」
立てる、とルーサーに言い終わるより早く、ダークサイドが手足を振り動かした。立ち上がりクラークへと突進していく。焼かれた頭からは灰色の煙が昇っていた。
「この天才が肩を貸してやると言っているんだぞ?親父の教えを一つ言おう、“好意は素直に受け取れ”」
そう言ってルーサーはブルースを助け起こした。思わず舌打ちしたくなったが、それより聞きたい事がある。ふらつく膝を叱咤して、ブルースはルーサーと共に祭壇へと歩いた。
「方法は見付かったのか……?」
「ヒントはな。…正式な儀式の手順が、祭壇の飾りに描かれていた。本はあくまで補助に過ぎなかったらしい」
ルーサーが眉を顰めた。天才を標榜するこのヴィランにとって、気付かなかった事は何よりの屈辱だろう。
「太陽の戦士か暗黒の王か、どちらかが勝った時にあの門は再び開き、奴を煉獄アポカリプスへと連れて行く。つまりまた門を開く事が出来れば」
「…奴は消える」
「そうだ」
「だが」
ブルースはそこで言葉を切った。血と歯の破片が入り混じった唾を吐き捨てる。
「出来るのか?」
「呪文には問題が無い。ただ――見えるか」
目を凝らすブルースの視界に、バーバラの上で輝く黄金の円が映る。その周囲にはいつの間にか光の鎖が巻き付いていた。
「あれを砕かん事には呪文も効果を発揮出来ん」
「……これで叩き斬ろう」
右手で握ったままだった剣をブルースは持ち上げようとした。が、たちまち肘に鈍い痛みが走る。低く呻いたブルースを冷ややかな目で見ながら、ルーサーは首を振った。
「無茶な。確かにその剣なら、あれを断ち切る事も可能だろうが――」
「可能なら、やるまでだ」
ルーサーの肩に回されていた左腕を、ブルースは振りほどいた。均衡を崩した体はぐらりと傾くが、震える足を叱咤して、何とか剣を左手に持ち替えた。杖のように切っ先を地面に付けて、細く長い吐息で痛みを殺す。
「これで良い。…連れて行け」
「俺に命令する気か?ちゃんと頼め」
そう言いながらもルーサーはブルースの腕を支えた。再びゆっくりと祭壇へ向かう。肩越しにブルースは背後を見やった。
クラークがダークサイドと戦っている。1.5倍はありそうな巨躯と、それでも彼は対等に張り合っていた。瞳から零れる光は、煉獄の炎と異なる鮮やかな茜色だ。
ともすれば崩れそうになる膝に力を入れて、ブルースは歩き続けた。祭壇まであと数歩だ。この小さな石段を昇れば、と思った所で、門を包む鎖が2人に襲い掛かった。
「っ!」
間髪入れず伸びたルーサーの手から、不可視の壁が発生する。防御壁にぶつかった鎖は蛇のように怯んだが、しかし2人をそれ以上近寄らせまいと言うように宙を舞った。
「生意気な」
「呪文はここからでも?」
「いける」
「なら、やれ」
少し躊躇った後に、ルーサーの手が離れた。やがて先刻に唱えられたものと同じ言葉が、彼の口から静かに出て行く。再びこちらに向けて振り上げられた鎖を、ブルースは左手の剣で薙ぎ払った。思いがけず重たい感触にがくりと腕が落ちるが、再び構え直し、石段へと歩む。
2本、3本と鎖が増えた。左腕ひとつで横へと払うも、不意を突いた1本に脇腹を打たれた。
「ぐっ……!」
雷の流れる棍棒で打たれたようだった。思わずしゃがみ込んだ瞬間、もう1度、今度は胸に食らう。ブルースは仰向けに倒れた。
だが剣はまだ左手に握ったままだ。それを杖代わりにして立ち上がる。額に汗を浮かべたルーサーの周囲へと、伸びた鎖に斬り付けた。さっと黄金の鎖が引いていく。
――今だ。
鈍痛の走る足首を無視してブルースは走った。石段に足が掛かる。2段目、3段目――襲い掛かる鎖を切り払う。勢いに負けて砕けた鎖の先が、美しい金の光となって四散した。
最後の1段。剣の柄を脇腹にぴたりと付けて、ブルースは切っ先を円を覆う鎖目掛けて突き出す。手応えはあった。再び剣を突き入れれば完全に鎖は断たれる。
しかし希望が湧き上がったのは一瞬だった。足首が鎖に絡め取られ、引きずられる。
「うあっ!」
ただでさえ傷付いていた箇所を強く握られ、思わず悲鳴が上がった。勢い良く宙へと放り出され、ブルースは今日2度目となる全身での着地を味わわされた。左手から剣がするりと抜ける。
「バットマン!」
不意に白く染まった視界の向こうで、誰かの呼ぶ声が聞こえた――誰かではない、クラークだ。
霞む目を必死で動かすと、クラークの赤いケープが見えた。その首を掴みこちらを見据える、ダークサイドの姿も。
『貴様ら、もしや……!』
岩を思わせる面貌に初めて動揺の影が過ぎった。ルーサーはなおも祭壇に向かって呪文を唱え続けている。彼とブルースを等分に睨み付けてから、ダークサイドは手のクラークを、壊れた人形のように投げた。飛んで避ける力も残っていないのか、ブルースの真横にクラークはめり込んだ。茜色の光がふっと薄れ、生来の青が瞳に戻る。
『邪魔はさせぬぞ』
ダークサイドが地を蹴った。祭壇に向かい続けるルーサー目掛けて巨躯が走る。レックス、とクラークが声にならぬ呟きを上げた。地面に手を付き身を起こすものの、既にダークサイドは白いローブに迫っている――間に合わない。
あと数歩分の距離に迫った所で、しかしダークサイドの巨体が、勢い良く転んだ。
『ぬう……!』
「ヒッ」
地面から響く甲高い声は悲鳴ではない。
笑いだった。
「ヒィッヒヒヒヒヒ!見たかよ、ええ?!今の格好と来たら道化師も形無しだぜ!」
ダークサイドの足元から、紫色の影が飛び出す。ヴィランの道化王子は暗雲に囲まれた月に白い喉を晒した。
『どうやって入り込んだ、鼠めが!』
「おっとお呼びじゃ無かった様子だな」
怒れる拳を軽やかに飛んで避けながら、ジョーカーは被っていた帽子を取って一礼した。
「しかし“どうやって”とは野暮な物言いだ。もっと詩的な言い回しを聞きたいもんだな」
『黙れ!』
ダークサイドの攻撃を、ひらりひらりと体重が無いもののようにジョーカーはかわしていく。その視線を僅かにブルースへと向けると、笑ったままの赤い唇が更に歪んだ。はっとブルースは我に返り、剣を拾ってクラークの肩を叩いた。
「今の内だ、門を!」
「あ、ああ!」
ブルースの腰に腕を回し、クラークは祭壇目掛けて飛んだ。
『止せ……ぐおっ!』
「陛下、水鉄砲はお好きで?」
しかしダークサイドの叫びは途中で呻きに変わった。ジョーカーが胸の花から酸を飛ばしたのだ。溶かされた部分を押さえ、煉獄の主は道化師を捕まえようと片手を振り回す。
石段を上る事なく、ブルースは祭壇の前に着地した。一斉に牙むく鎖を前に、横で再びクラークが宙へと浮かぶ。
「鎖は僕に任せて、門を開いてくれ!」
「分かっている」
ブルースは左手の剣を強く握り締めた。間近を飛ぶクラークに向けて鎖が襲う。ブルースへと向かうものはない。
既に半ば砕け掛けていた鎖へと狙いを定め、ブルースは、剣を突き込んだ。
『止せえええええええ!』
祭壇に横たわっていたバーバラの目が、開いた。
剣を突き立てられた部分を中心に、鎖が砕けていく。ブルースが剣を抜くと、たちどころにその破滅は広がった。
ぱあん、と音を立て、門が――爆ぜた。
第8章
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