早目の食事は一通り終わったと言うのに、家の中にはまだスープや肉の残り香が漂っている。久方振りの暖炉の前での食事を、ブルースもクラークもすっかり堪能した。
「お客様なんて久し振りね」
「そうだな」
青くなっていたゴードンも、流石に元の顔色と落ち着きを取り戻したらしい。バーバラの言葉ににこやかに答えている。
「君達は旅をしているようだが、目的地などあるのかね?」
ワインの栓を開けたゴードンにクラークが頷いた。
「僕は一応」
「ほう。どこへ?」
兜を付けたままのブルースは、クラークの空になった杯に水を注いでやった。こちらにワインを注ごうとするバーバラには丁重に断る。
「クリプトンを探しているんです」
「クリプトン……古代の都か」
かつて世界がまだ若かった時代、人間は太陽から力を得、畑を耕す必要も無く暮らしていた。彼らの文明は大陸中に広まり巨大な帝国を築いていたが、しかし大地の怒りに触れ、一昼夜にして滅んだと言われている。幻の都だ。
クラークがそれを求める理由など知らずに、ゴードンは驚いた様子で髭に触れた。
「それはまた、随分と…大変そうだな。具体的な手掛かりなど無いだろう」
「ええ。方々を旅して回ったんですが、見当たらない物ですね」
「でも楽しそう」
頬杖を突いてバーバラが言った。暖炉の灯かりに照らされて、赤毛が燃え立つように映える。
「私なんてこの村を出た事が無いんだから。1度で良いから旅をしてみたいな」
「お前はまだ若過ぎるよ、バブ」
「今すぐなんて言ってないわよ」
唇を尖らせたバーバラにゴードンは苦笑する。仲の良い親子なのだろう。ブルースはふと昔の両親との食事を思い出した。
「君は?」
「…当ては無い。修行の旅のようなものだ」
ブルースの答えに成る程、とゴードンは頷く。その視線はブルースが椅子に立て掛けた剣へと向かっている。
「見事な剣だ。昔を思い出すよ」
「パパったらまた昔話?」
「良いじゃないか、今日は同郷の士もいる事だ。……本当に美しい都だった。装飾や細工の類が見事だった。ゴッサムブルーと言う色を見た事が?」
「名前だけです」
「それは残念だな。あの街で取れる石は、黒を帯びた深い深い青に発色するんだ。街並みの至る所がその青で塗られていた。夜になるとそれが仄かな街灯に照らされて、まるで海の底を歩いているような気分になるのさ」
原初の夜、と詩人達に歌われたゴッサムの夜は、しかし何時からか魔を潜ませるようになった。
「誰かが魔界の蓋を開けたのだと言うが、その通りだと思うね。外壁周辺や街中にまでモンスターが現れるようになった。しかも呼応するように如何わしい連中が集まって来る。気付けば犯罪窟のような場所が幾つも出来上がっていた。陛下は随分と心を痛められていたらしい……」
クラークが、ちらりとこちらを見やった。ブルースは何も言わず杯を傾ける。酒は取らぬようにしていたが、酔えないのはこう言う時に辛い。
「だがまさか、劇場の帰りに命を落とされるとは……警備兵で防げなかったのかと何度も思ったよ」
「貴方はその場にいたんですか?」
「ああ」
指先に伝わった動揺で杯の中身が揺れた。
「と言っても全てが終わってから、王子の保護に当たっただけだがね。それでもすぐに分かった。警備兵の間をすり抜けて胸を射抜くなど、ヴィラン以外に出来る仕業では……バットマン?」
「少し見回りに行って来る。気にしないで良い」
杯を置き剣を手に立つと、影のようにブルースはドアから出て行った。不自然に見えなければ良いが、と思う。冷えた外気が頬やケープを弄り、体から温もりを奪い去って行く。視線を落とすとバーバラの点けたランプが、軒先のカボチャと蕪を照らしていた。日付が変わると人々はこれを持って集会所に赴き、収穫への感謝と来年の恵みを祈るらしい。楽しみにしていたバーバラを、行かせぬように説得するのは少々骨が折れた。
ひっそりとブルースは家の周辺を歩き出す。足元で枯れ葉が音を立てた。
ああ、あの夜もこんな風に枯れ葉を踏んで、面白い音がするとはしゃいでいた。微笑ましげに自分を見詰める母と父と、少し離れて自分達を取り巻く警備兵と。そろそろ馬車に乗ろうと言われ、振り返ったその瞬間、両親は――
かさり、と背後で誰かの足音がした。
剣の柄に手を添え、いつでも抜ける体勢で振り返る。抜かなかったのは村人かとも思ったからだ。そんな自分が甘いと、ブルースは刹那の後に思い知る。
「良い夜だな」
黄金の円盤にも似た月の下、緑の髪が風を孕んで膨らむ。
「お散歩かい、バッツィー?」
「お前もそうだろう、ジョーカー」
ブルースは躊躇わず剣を抜いた。抜き身の両刃剣は月光を跳ね返す事なく、ただ闇に沈むように黒い。
「マッドハッターと言いお前と言い、目当ては何だ?」
「怖い顔しなさんなって。知ってるかい?強面は今時もてないんだぜ?」
「答えろ」
高貴の証である紫を身に纏った道化師は、だが白い喉をのけぞらせて笑った。
「俺だっていかれ帽子屋のアリス趣味に付き合う気はねぇさ!だけどお楽しみには不可欠だからな。あのお嬢ちゃんは貰って行くぜ、バッツ」
「その呼び方は」
宙に掻き消えようとするジョーカー目掛けて、ブルースは剣を振り下ろした。不可視の力が空を切り、ジョーカーの周囲を包む。薄くなっていた道化師の輪郭が再び明確になった。
「止めろと言った筈だぞ」
原初の夜を統べると共に、それに仕えるウェイン家の宝剣。それを振る折に放たれる力は、ヴィラン達の存在を一時なりともこの世に縛り付ける。どこへも消える事が出来なくなったジョーカーは、舌打ちして細長い右腕を開いた。握られた右手に薄い紫の光が集まり始める。
「スープス無しでやる気かよ」
「あいつ無しの方が本気を出せて良い」
半ばは軽口で、残り半分は本音だった。剣を青眼に構えたブルースに、ヴィラン達の狂王子は目を細める。
「言うじゃねぇか、ダーリン」
「その呼び方はもっと止めろ」
弾けるように飛んで来た紫の光球を、ブルースは剣の腹で受け止めた。
第2章
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