第4章

眼下に広がる森は墨の海のような暗さで、ブルースにはどこが空で地面なのか区別も付かない。頼りになるのはクラークの目だけだ。それに関しては自分を抱える腕と同様に、ブルースも殆ど心配をしていなかった。
「ブルース」
「何か見付けたか?」
いいや、とクラークは首を振り、どこか苦渋に満ちた瞳でブルースを見詰めた。
「君の言う通り、僕が彼女に付いているべきだったと思って」
手に力が篭るのをブルースは感じた。見上げた目には夜風で靡いた前髪が掛かっている。それをそっと掻き分けてから、ブルースは首を振った。横に。
「あれしきの攻撃に手間取った私も悪い。それよりもバーバラを助けるのが先だ」
「……ああ」
クラークの、夏の空を思わせる瞳に力が甦る。再び彼は下を見渡し始めた。程なく濃い眉が寄せられる。
「見付けた。降りるからしっかり捕まってくれ」
「分かった」
首に回していた手へと力を込めれば、すぐさま落下の感覚が全身を襲う。兜を揺すりケープを乱す風に息を詰めたのも一瞬だった。足裏に宿る地面の固さに、密かにほっとしながらブルースはクラークから離れる。
落ちていた枝を手に取り、クラークは茜色の熱線で火を点けた。ぼうっと白亜の石で作られた門が浮かび上がる。その横で神か、はたまた死神か、馬に跨った老人の像が2人を見下ろしていた。足元に掘り込まれている文字は、歳月と風雨によってすっかり擦り切れている。
「クリプトンの文字では?」
「…違うみたいだ。あれよりずっと入り組んでいる」
多少なりとも古代の知識を有する2人だったが、蛇を思わせる文字には心当たりが無かった。門を通る折に、鳥の像が動きはしないかと少しブルースは気を病んだが、その必要は無かったらしい。像は微動だにせず侵入者達を見送った。
所々で地面から突き出す白亜の石板は、おそらくは古代人達の墓なのだろう。或いは傾き、或いは伸びた草が絡み付き、原型がどうであったのか想像するのは難しかった。暗さと道代わりに並べられていたらしい石の所為で、ブルースは何度か転びそうになり、その度に伸ばされるクラークの手に顔を顰めた。止めろと言う程に子どもではないが、いちいち礼を述べるような気分にはなれない。
警戒しながらゆっくりと回ったが、さして広くない墓場はすぐに一周出来た。予想と違いヴィランはおろか、モンスターの影も形も見えない。ただ静まり返る夜に、ブルースはクラークと顔を見合わせた。
「妙だな」
「ここじゃ無いのかもしれない」
「…もう1度回ってみよう。今度はこちらからだ」
良く地面が見えるよう松明を持ち替えながらブルースは言った。また転ばぬよう気を付けながら歩を進める。数歩遅れでクラークが続く。
一際大きな墓や、抜け穴など無いかと注意して見ても、それらしき痕跡は見当たらない。どれも同じ程の大きさで草生し、レリーフや碑と言った目印すら無かった。知らず知らず苛立ちに眉が寄る。もう1周し終えてから、今度は門へと向かった。
「ここを調べて見当たらないようなら、もう1度回ってから村に戻ろう。聞き直せばもっと違った場所が見付かるかもしれない」
「…そうだな。連中がここより遠い場所に出るとは考えられん」
それならばバーバラよりももっと近い村の少女を襲っている筈だ。単なるマッドハッターの趣味と言う線も考えられたが、検討に入れるときりが無い上に焦りばかりが浮かんで来る。ブルースは首を振って門の前に屈み込んだ。
「地下への抜け穴らしき物は無いな」
「門にヒントでも書いていないかな?」
振り返ればクラークが門の上を指している。墓場の名前程度だろう、と口を開く寸前、ブルースはちらりと違和感を覚えた。
先程、門の横にあった騎馬像が消えている。
代わってそこにあったのは、黒馬に跨った案山子のように細い男の姿。ブルースが松明を放って剣を抜くのと、馬が飛んだのはほぼ同時だった。そして振り返ったクラークに敵の手が伸びる。
枯れ木じみた腕を掴もうとしたクラークの顔に、敵の手は容赦なく霧を吹き掛けた。
――しまった。
ぎりりと奥歯を噛んだ所為で、身構えるのが僅かに遅れる。ブルースもまたその霧を吸い込んでいた。それでもこちらの横を駆ける馬へと剣を突き出す。だがヴィランを乗せた黒馬は夜空へと飛び、切っ先と剣の力から逃れてしまった。
何も無い宙を黒馬が駆ける。蹄の音さえ耳に届くのが奇妙だった――これも幻術なのだろうかと、そう思う矢先から手足が痺れていく。
「ヒヒヒ!今宵の幻術は少々きついぞ!」
馬の手綱を繰りながら、スケアクロウは高らかに哄笑した。
「貴様……!」
咳き込んでいたクラークが、案山子の名持つ悪夢使いに茜色の視線を向ける。霞み始めたブルースの瞳にもそれだけは焼き付いた。
「ほほう、矢張り効かんか。しかし私に構っている暇があるのかね、スーパーマン?」
ブルースの耳へ最後に届いた明瞭な響きは、スケアクロウのその揶揄だった。
全てが遠い。夜風が世界に幕を引いたようだ。枯れ葉が舞う。
父と母の血で赤く染まった枯れ葉が。
「……!」
真珠のような白が現実を欠片に至るまで塗り潰す。だらりと垂れ下がっていた剣を握り直すと、ブルースは眼前の男に向けて走り出した。

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