第5章

振り翳された剣の速さは、一陣の夜風と見紛う程だった。
「ブルース!」
背後へと飛ぶ事で太刀から逃れたクラークは、剣を振るい続けるブルースを呼び続けた。黒馬に乗ったスケアクロウは既に夜の彼方へと走り去っている。残された笑い声も太刀風に紛れて消えていった。
だがヴィランの置き土産は消えはしない。恐るべき悪夢を掻き立てる魔霧は、しっかりとブルースの身内に息衝き、根を張っていた。
「しっかりしてくれ!」
「黙れ、化け物が……!」
「っ」
顔を庇った手の甲が、切っ先に触れてぴりりと切れた。久し振りに見た自分の血の赤さに、クラークは僅かながらも慄然とする。
現界の力や一部の魔法には、自分の体は極めて頑健だ。しかしブルースの剣のように、強靭な魔法の掛かった物となると話は違って来る。斬られれば裂け、血を吹き出すのを覚悟せねばならない。
「消えろ、消えろ、消えろ!」
そう叫んでブルースはクラークに剣を振り回す。彼が何を見ているのかはクラークにも検討が付いた。思わず痛ましさに眉が寄る。
確かブルースのベルトには、スケアクロウの幻術に効く薬草が入っていた筈だ。まずは彼を取り押さえて、と思うクラークを気にもしない様子で、剣が今度は首筋を浅く切った。同時に僅かながら脱力感がクラークを襲う。対ヴィランに効果的なこの剣は、どうやらクラークにも少なからず影響を与えるようだった。早く抑えねばこちらが危うい。
しかしブルースは剣を振り回し続けている。腕を掴もうとすれば見切ったように太刀筋が流れた。優れた腕前に取り押さえかねている内に、いつしかクラークは再び墓所の内へと入り込んでいた。
「僕は敵じゃないんだ、どうか剣を収めて……!」
気を逸らそうと語り掛けても無駄だった。疲れも見せず剣は空を切り続ける。一際鋭い踏み込みにクラークは一歩、背後へと退き、埋まっていた墓石に足を取られた。
「うわっ!」
がくん、と足場が揺れる。しかし眼前に迫る刃が飛んで逃げる事を許してくれない。横へ逃れようと思った瞬間、更に足場が揺れた。
墓石に大きな亀裂が走る。おかしいとクラークが思う間もなくそれは広がり、ブルースの足元にまで枝を伸ばした。
僅か半呼吸の後に、雷鳴のような地響きが鳴り――地面が崩れ落ちた。
「!」
「ブルース!」
死者が眠る墓穴よりも遥かに深い洞穴が、2人の真下で口を開いていた。
「近寄るな!」
クラークの手はしかし、剣の一閃によって拒絶される。なす術も無く落ちてくブルースを捕らえようと、クラークは降り注ぐ岩石を物ともせず下へと飛んだ。正しくは、飛ぼうとした。
「……!」
ブルースへと伸ばしていた指先が不意に落ちる。
――飛べない!
まさか、と見開かれたクラークの瞳に、洞穴の壁が映った。
息衝くように煌く緑の輝きを、内に秘めた岸壁が。
「ブ……」
酷い吐き気が胸を襲う。闇夜の騎士の名を呼ぶ事はおろか、まともな呼吸ひとつ出来ぬまま、クラークは意識を手放した。


夜空が見える。
父と母の声を聞きながら膝を抱え、“星”の中にいた頃は、いつでもあの夜空が見られた気がする。小さな宝玉の粒を一面にばら撒いた空が、すぐ向こうに広がっていた。
何と懐かしい。
触れてみようか、と手を動かせば、じゃらりと嫌な音が騒いだ。鎖だ。
「気が付いたか」
次いで響く声音は鎖よりも耳に馴染んだ物だった。
「ルーサー……」
「役に立たん門番で苦労するよ。君ばかりかあの蝙蝠さえ始末出来ないとは」
蝙蝠、と空ろに繰り返してから、クラークははっと顔を上げた。
ここは“星”の中などではない。灰色の岩や石柱が乱立する間を、冷たい風が吹き渡る外だった。石や柱が或いは草生し、崩れ掛けているのは先程の墓場と似ていたが、あそこよりも遥かに広かった。どうやら神殿らしく、半ば草に埋もれているとは言え、石畳まで敷き詰められていた。
眼前に立つのは獅子頭の杖を弄ぶルーサーだ。白いローブの肩越しに、巨石に腕を鎖で繋がれたブルースが覗いた。鎧兜が着けられている事にクラークは胸を撫で下ろす。彼の素性が知られれば、ヴィランはおろか常人にも付け狙われかねない。
「まあ来る事は予想していたがな。気付けに酒でも飲むかね?」
「ここで何をするつもりだ?バーバラは?」
「やれやれお笑いだ。我々を脅かす男が、社交辞令の一つも口に出来んとは!」
ルーサーはそう言って肩を竦めてから、打って変わった速さでクラークの喉に杖を突き付けた。払い除けようと思わず手に力を込めたが、鎖はがちゃがちゃと鳴るだけで解放の素振りも見せない。ルーサーが片眉を上げた。獅子頭の飾りがクラークの喉に深く食い込む。
「魔法は苦手だったな、“鋼鉄の男”?ん?」
「…バーバラを、返せ」
「俺がこのまま魔法を唱えればどうなると思う?」
喉に食い込む獅子頭の飾りが、不意に熱を帯びた。奥歯を噛み締めながらクラークはルーサーを睨み付ける。
「お前が喜ぶだけだ。彼女を返せ!」
ルーサーの唇に浮かんでいた笑みが、ふっと消えた。同時に杖も引き抜かれる。圧迫から逃れてクラークは長い息を吐き、吸った。目をクラークに据えたまま、ルーサーは踊りのステップでも踏むように下がった。
「少し違うな」
「そんな事はどうでも良い」
「…その通りだ。あれを見ろ」
振り上げられた杖の先をクラークは追う。左手奥にある石の祭壇の上に、赤毛の少女が横たわっていた。
「バーバラ!」
「マッドハッターの少女趣味もたまには役立つ。良い娘じゃあないか。生への活力に満ちた、穢れ無き乙女――」
舞台俳優じみた一呼吸を置いて、ルーサーは言った。
「最適な生贄だ」
「貴様!」
鎖の存在も忘れてクラークは身を乗り出した。顔を顰めたルーサーが更に数歩下がる。
「性懲りも無く……!今度は何を呼び出す気なんだ!」
「ほほう、俺の召喚の腕前をようやく覚えて頂けたようだな!嬉しいよ」
笑い声にかっと脳裏が焼き付く。常ならばヒートビジョンが漏れていたかもしれない。だが腕の鎖はどう言う魔法か、瞳に茜色の光芒を宿す事さえ封じていた。
「ヒントをひとつ、豊穣月の終わりには何がある?」
「収穫祭が」
「今度は正解だな。だがまだ足りん」
杖がくるりとルーサーの手の内で回った。もう片方の手に1冊の本が出現する。古びた黒とも紫とも付かぬ革表紙を、これ見よがしに振りながら、ルーサーは言った。
「ハロウィンだ!」
「……ハロウィン?」
その通り、とルーサーは高らかに答える。
「この神殿を作った先住民……クリプトニアンよりも後の存在だろうな、クリプトナイトでの洞穴を見ただろう?彼らが収穫祭をどう言う日と位置付けていたか、俺は見付けたんだよ」
白いケープは夜目にも嫌味な程に鮮やかだった。裾が羽根のように翻る。やや高い石の上に乗って、ルーサーはクラークを見下ろした。
「太陽が沈み暗黒の季節が訪れる日。またまた質問だ、それは俺達にとってどんな日だと思う?」
「まさか、お前達の力が倍増するとか――」
「惜しい!今日は珍しく冴えているじゃないか、スーパーマン。彼も喜ぶだろう。聞かせてやれないのが残念だ」
項垂れたままのブルースの兜を、ルーサーは杖先で軽く突いた。小さな呻きがその唇から上がる。クラークは思わず眉を寄せた。
「そう、暗闇の季節が始まるこの夜に、俺達ヴィランの力は格段に上昇する。つまり――魔王とこの世界が極めて近しくなる。強大なあのエネルギー全てを、この世界に顕現する事も夢じゃない」
「魔王を呼ぶつもりなのか……?」
「ああ」
呆然としたクラークにあっさりとルーサーは頷く。何がおかしい、と言わんばかりの表情だった。
「そして俺がかのエネルギーの器となる。そうなったら我が王者の塔に帰る必要も無いな。何なら選手交代で、お前があそこに入るのは?」
「止せ!」
「心配はしなくて良いとも!あのエネルギーはきっちりと俺が受け止めるさ。新生魔王としてのプランも立ててある。新しい大陸を作るってのはどうだ?悪くないだろう。夢は大いなるが良し、かの鷲の翼の如くに!」
「ふざけるな、お前が魔王になったらこの世界がどうなるか……!」
くるりと回転してから、ルーサーはにやりと微笑んだ。月明かりを浴びた禿頭が光る。
「止めてみせると?“破滅よりのもの”程度に手こずったお前がか、スーパーマン?」
「“破滅よりのもの”程度に振り回されたのは誰だ?!…僕達が止めなければ、お前は今頃世界から消え」
クラークは言葉を切らざるを得なかった。見えぬ手が喉を締め上げている。蒼白になったルーサーの振り上げた杖には、金色の輝きが宿っていた。
クリプトナイトよりも悪い。骨まで断ち切らんばかりの力に、クラークはただ空気を求めて喘ぐ事しか出来なかった。額際にじわりと汗が滲み、生理的な涙で視界がぼやけた。
「2度と、そんな口を、叩くな」
喉から力が離れる。ひゅっ、と風切るような音を鳴らしてクラークは空気を吸い込んだ。ルーサーがこちらに視線を置いたまま、杖の獅子頭をさも愛しげに撫でさする。
「そこで見ていると良い。俺がヴィランを超える、新たな魔王となる瞬間をな」
「…よ、せ……」
荒い呼吸で肩を上下させながらも、クラークは去り行く白いケープに向けて、なおも制止の言葉を呟いていた。

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