第6章

ルーサーの足音が遠ざかると共に、ゆっくり頭が持ち上がっていく。兜に覆われた目がぴたりと自分に定まるのをクラークは感じ取った。それから吐き出されるやや荒い語気。
「怪我は無いな?」
その言葉のまともさに安堵しながら、クラークはブルースに頷いた。
「ああ。…いつから起きていたんだい?」
「奴が突いてくれた頃からだ」
答えてからブルースは周囲を見渡した。祭壇に横たわるバーバラと、その側に歩み寄るルーサーの姿に、鋭い舌打ちが漏れる。
「すまん。私のミスだ」
「気にしないでくれ。それより、鎖を」
ルーサーを気にしながらクラークは囁いた。脱出術を学んだブルースならどうにかなる、と期待を込めての事だった。しかしブルースは長い指を探るように動かした後で、首を横に振る。
「…駄目だな。お前は?」
「僕もだ。力が入らない」
証明を兼ねてクラークは手を動かした。鎖がぴんと張るが、それきり微動だにしない。ブルースも同様に手を引っ張るが、手首に食い込んだのか僅かに顔を顰めた。
「くそ……!」
「無駄な真似は止した方が良いぞ」
掛けられた声に2人は祭壇へと顔を向ける。ルーサーはバーバラの前で笑っていた。その背後の巨石には、蛇か炎のように入り組んだ文字が、びっしりと掘り込まれている。
「儀式の始まりだ。雑音は控えてくれ」
「止めろ!」
「…人の話を聞かん連中だな」
肩を竦めてからルーサーは空を仰ぎ見た。紅の影を宿した満月が、宙天高く輝いている。その禍々しい程に巨大な円盤へと獅子頭の杖が掲げられる。月光を移したような黄金の光が輝き渡った。
「乙女を世界の橋となし、かの偉大にして悪辣なる力を招き寄せる――世界の変革に関われる事を光栄に思え」
杖は動かされる度に黄金の軌跡を夜に描いた。ルーサーの口から意味の取れぬ言葉の羅列が紡がれていく。無駄と分かりながらもクラークは足掻いた。鎖がひとつ軋む度に、手首が擦れ血が滲むのも気にならない。ブルースもまた腕を捩じらせていた。
儀式の贄にされる者がどんな運命を辿るのか、クラークは知っている。大抵は死だ。そしてそれに当て嵌まらなかった者も、強大な魔力に食われて廃人と化す。
宙に留まっていた黄金の軌跡が一斉にバーバラの上へと集った。晴れていた空にも月を中心として雲が渦巻き始める。止せ、と叫ぶクラークの耳を、引き裂かれるような風の音が塞いだ。
「煉獄の主の力を!」
ルーサーの声で黄金の光が再び散らばり、ある形を作り出す――円だ。
円から伸びた光の渦が月へと向かう。2つの光が結び付いたその瞬間、雷鳴よりも高く、虫の羽ばたきよりも低い音が轟いた。
黄金の輝きだけが視界を圧する。クラークは自分が目を瞑っているのか、開いているのかさえ分からなかった。
目を開いているのだと分かったのは、呼吸を2つ繰り返してからだった。既に光は消えている。ルーサーは、と首を巡らせて、クラークは息を呑んだ。
横たわるバーバラと、祭壇に凭れ掛かっているルーサーの前に、巨大な影が現れている。死を思わせる不吉な青さと、焦土の色に覆われたそれは、月に照らされながらも深い翳りを失わなかった。
『……使う者が…まだ……』
「馬鹿な」
岩を擦り合わせた折そっくりの声が人語を紡ぐ。呆然としたルーサーの呟きを意にも介さず、影は孵化寸前の卵のような緩やかさで立ち上がり始めた。
呼ぶものは“力”であった筈だ。
魔王自身ではなかった筈だ。
『ブームチューブが……長い時……』
青ざめるクラークの意図を他所に、影はついに山のごとき威容を曝け出した。煉獄の炎の燃える瞳が、バーバラを、クラークを、ブルースを、そしてルーサーを見据えた。
『呼んだのは貴様か』
「…違う、俺が呼んだのは“アポカリプスの帝王”の力だけ――」
人の頭よりも大きな拳が、ルーサーの胸倉を掴んだ。
『矮小な人間風情が、我が二つ名を蔑するとは』
「侮辱などするものか!あ、あんたの真の名さえ知らんのに」
『ならば恐怖と共に覚えおくが良い』
手が離れると同時にルーサーが飛んだ。石板に打ち付けられ咳き込む彼に、巨躯の魔王は未だ輝き続ける黄金の門を背中にしながら言い放った。
『我が名はダークサイド。深淵より来る支配者、煉獄の主、炎燃え立つアポカリプスの帝王、そして』
ルーサーの獅子頭の杖が踏み砕かれる。
『血肉削る戦士達の長なり』
地響きが周囲を揺るがした。神殿の四方から太い石柱がせり上がって来る。天に至るまで伸びたその頂きには、この世のものならぬ赤黒い炎が灯っていた。
『さあ、我に挑め。暗黒の果てに沈む哀れなる贄よ』
絶望的な間違いが起きたのだと、クラークは気付かずにいられなかった。

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