『いいかケント!何が何でもモノにしてこい!ゴッサム支社の連中に遠慮なんかしたら、俺が月までぶっ飛ばしてやるからな!』
ロイスが別件でドイツ出張中なのが、何よりも痛かった。
ペリーもそう言うだろうが、クラークは心底そう感じていた。今回はジミーもクリスマス取材とかで、別のニュースに行ってしまっている。
輝けるデイリー・プラネット社の有能なるチーフは、先日、ゴッサムでの話を耳にしたそうだ。昨今、ゴッサム・メトロポリス両都市を騒がせている、海運業についての黒い噂である。
ゴッサムの海運業者がマフィアと手を組み、密輸業を行っているという話だった。
内容がまたふるっている。
従来からゴッサムを支配し続けたマフィア・ファルコーニ家と、海運業組合は手切れしたかった。その為に彼らはメトロポリスのマフィアと提携し、その新ルートでゴッサムに麻薬を密輸している。今や新たな勢力として、影からファルコーニ家を脅かし始めている。その彼らが22日、ゴッサムベイで取引を行うそうだ。
…そんな話なのである。
確かにクラークもメトロポリスの裏社会に新勢力が現れたと聞いている。しかし彼らと義理や歴史を重んじるゴッサム海運業が手を組むとも思えない。更にどうして取引日までが判明しているのか。港湾を取り巻く不穏な状況が生み出した、単なる中傷に過ぎないのではないかと考えたクラークであった、が。
『中傷か何かは足で調べて来い!ガセだったら良いネタを掴んでくるまで帰るなよ!』
ペリーに負け、彼は今、こうしてゴッサムの夜を街角で過ごす羽目となっていた。
「…もうすぐクリスマスか……」
ゴシック建築のあちこちに、小さな柊やベルが飾られている。午前中に降った雪がその上に積もり、メトロポリスとは異なる幻想的な雰囲気を醸し出していた。
ゴッサムの夜は暗い。繁華街でも、1本路地に入ればそこは暗闇の世界だ。全てをくまなく照らすメトロポリスとは違う。加えてこの場所は海岸沿いであり、潮騒と霧笛は独特の静けさを持っている。明るい夜に慣れたクラークには、少し居心地が悪い場所だった。
それでも取材を命ぜられた以上、帰る訳にはいかないのだ。寒さに影響されない体をフル活用し、クラークは小1時間ほど倉庫の居並ぶ中に佇んでいた。
もしガセネタであっても、両港湾部の暗い噂をテーマに記事が2つは書けるだろう。頭の中でざっとそれらを考えている内に、時間は過ぎていった。遠くに犬の鳴き声が聞こえる。
…そして、徐々に近付く車のエンジン音も、クラークの耳に届いていた。
エンジンの停止も、靴音が3人分なのも分かる。どうやらこちらにまっすぐ向かって来るようだ。クラークが時計を見ると針は2時を示していた。
「連中、もう来ていると思うか?」
その言葉は、噂を裏付けるのに十分だと思えた。一般人が午前2時に倉庫街で待ち合わせるなど、聞いた事がない。
靴音は近付いて来る。と同時に、逆方向からも靴音が5つ聞こえ始める。時間には正確な者達らしい。レコーダーのスイッチをクラークは押した。
「よう、尾けられなかっただろうな」
「当たり前だ」
暗がりの中、会話が始まった。クラークは目を凝らし、男達の姿を昼間のようにはっきりと視界に入れる。彼らは一様に仕立ての良いスーツ姿だった。年齢は30代から40代で、使い走りには見えない。
昨日捕まえたチンピラとはえらい違いだ、クラークはそう思いながら会話を聞こうと集中し―――
「おい、お前」
肩を叩かれて初めて、自分が集中し過ぎた事に気が付いた。
「何をしている。あれを見ていたのか」
見下ろされたのは久しぶりだな、などと場違いじみた感想をクラークは抱いた。2m以上ある巨漢が、自分を睨みつけている。
「おい、答えろ!」
「………こんばんは」
「ふざけるな」
ミットのような拳は後ろに飛んで避けた。でなければ拳の骨を粉々にさせてしまう。が、相手は当然その親切を受け入れず、すかさず銃を持ち出して来た。
しかも。
「どうした!」
大男の後ろから、3,4人がばたばたと駆けて来る。音から判断するにクラークの背後からも3人ばかりが走って来るようだ。男の持っていたらしい懐中電灯が、クラークの顔を鮮やかに照らした。
空を飛ぶ手は、これで使えない。
思わず舌打ちしてから、クラークは走り出した。とりあえず逃げなければならない。彼らの銃弾をはじいてしまえば正体が割れてしまう。捕まればまた事である。とにかく大急ぎで、常人としての全速力を保ちながら、逃げなければ。
乾いた銃声が聞こえ、耳元を何かが掠める。足の間を弾が通過していった。すぐに銃を撃つなど、穏やかな連中ではなさそうだ。
クラークは地面を蹴った。
蹴った瞬間に、浮き上がった。
「……え?」
「捕まっていろ!」
クラークの腰を掴みながら、誰かが耳元でそう言った。
「え?つ、捕まれって…うわ!」
次の瞬間、クラークの体は振り子のように宙で動いていた。
下では男達が何かを叫んでいる。怒号というよりは悲鳴だったろう。良く目を凝らすと、彼らの何人かには黒いものが突き刺さっている。また空を切る鋭い音と共に、必ず男達の誰かが倒れていった。
残り1人となった瞬間、その男が銃を撃った。
「っ!」
ほぼ同時にクラークを抱えていた男が体を捻る。いやな衝撃がクラークに伝わった。
撃たれたのだ。
だが彼は何かを手元から放つ。命中したのか、男はたちまち崩れ落ちる。
ばさり、と羽ばたきにも似た音がクラークの耳に届く。途端、再び宙に浮く感覚をクラークは味わった。
次の瞬間、彼らは地上に降り立っていた。
「大丈夫か!?」
クラークは男に思わず叫んでいた。彼は自分を庇って着弾したのである。
しかし彼は、クラークが伸ばした手を振り払った。異様な感触だった。よく見れば手袋を着けている。思い当たって息を呑んだクラークへ、彼は、顔を上げた。
黒いマスクで包まれた顔を。
「余計な真似をしてくれたな」
かすれた声はクラークに獣の威嚇を思い起こさせた。
「バットマン、か……」
「あと少しで奴らの正体が掴めた」
「それは…すまない」
ここはバットマンの街である。彼の守護する地に上がりこんだだけではなく、邪魔までしてしまったのだ。クラークに、バットマンは冷たい視線を向けた。
「記者か」
「あ、ええ…デイリー・プラネット本社のクラーク・ケントです」
「名前などどうでもいい」
手袋で包まれた指が、クラークの顔に突きつけられる。
「今夜の事は誰にも話すな。連中の事も、私の事もな」
「記事にしたくてもネタがないよ……」
「とにかく話すな。分かったか?」
「…はい」
「なら早くこの街から出て行け。ここはメトロポリスとは違う」
長く黒いケープがはためいた。
蝙蝠が再び、夜の闇へと消えてゆくのを、クラークは釈然としない面持ちで見つめていた。
「何も、あんな言い方しなくたって……」
踵を返しかけて、クラークはふと立ち止まる。
地面に積もった雪を掬うと、そこには赤黒いものが滴り落ちていた。
血である。恐らく、彼の。
「バットマン、か」
いささか無愛想ではあるが、彼も矢張りヒーローなのだとクラークは感じた。