12月23日/ニューヨーク 1

美しい光沢を持つタキシードに、ブルースはゆっくりと腕を通した。
ウェイン邸の名物執事はその様子に微かな吐息を零す。諦めが多分に篭ったその溜め息に、ブルースはいたたまれなさを覚えた。
脇腹を掠めた銃弾のお蔭で、体はやや熱っぽい。左腕を持ち上げると痛みが走っていった。

「痛みますか?」
「いいや」
「昨日の今日でございますからね」
「……」

「そうでもない」がそこそこ、「いいや」が痛む時、そして無言が辛い時。
アルフレッドは流石にその辺を心得ていて、返事によって痛み止めを変えてくれる。礼服姿のブルースはありがたい説明を聞きながら、ケースを手に取った。
「帰りはそう遅くならないようにする」
「そう願っております。行ってらっしゃいませ」

今晩はニューヨークでパーティーが開かれるのだ。無論、収益はチャリティに回される。今年最後という触れ込みの上、業界最大手の出版社が開催するパーティーである。出版業界のみならず、マスコミや有名人も多く参加する。
ブルースの所には当然、真っ先に招待状が届いていた。例え怪我をしていても、返事した以上行かなければならない。普段はプレイボーイ姿なのは、こういう時にキャンセルする為でもあるのだと、アルフレッド辺りは密かに思っているようである。責任感の強いブルースは、当然、放り投げる気がしなかった。
車内のゆったりしたシートに腰を下ろすと、ブルースは目を閉じた。



「ドイツ帰りの翌日にはNYでパーティー。我ながら感動するようなスケジュールね」
「疲れているんじゃないのかい?」
「平気よ。飛行機の中でぐっすり寝て来たから」
豊かな黒髪を結い上げ、水色のドレスを着こなす様からは、確かに疲れの色など見えない。タキシード姿のクラークは、そんなロイスを眩しく感じながら会場へと入った。自分以外の誰かにエスコートさせる方が、彼女にはずっと相応しく見えるだろう。

毎年デイリー・プラネットはこのパーティーに記者を派遣している。その栄光に預かれるのはいつも若手の花形達であり、今回はクラークとロイスが選ばれた。
ただクラークは、こういった席が少し苦手である。虚飾で満ちた華やかな世界は、「スモールビル」の身になかなか慣れない。値踏みするように見られるのも、別世界の庶民として無視されるのも落ち着かなかった。
その点、ロイスはいつも背筋を伸ばして堂々としている。会場内には女優やモデルも多いが、いつだって1番クールなのは彼女だ。変な虫も彼女には寄る事さえ出来まい。

「おや、ロイスじゃないか。久しぶりだな」
「あらルーサー、お元気そうね」
…前言撤回、とクラークは考えた。
スキンヘッドの億万長者は、にっこり笑ってロイスに手を伸ばす。ロイスも花のような笑顔と握手で答えた。クラークは、軽やかに無視された。
「今回は君も一緒なのか、えー」
「クラーク・ケントです」
「そうそう、ケントだケント。思い出した」
いかにもおざなりに言った後、矢張り握手はしてこない。レックス・ルーサーには出会った頃から嫌われている。クラークもまた、もう1つの姿の事を考えると、彼に笑って握手する事が途方もない難事に思えた。

ルーサーはなおもロイスとだけ喋り続けている。彼女の一瞬だけ見せた視線には、「ごめんちょっと相手してるからうろついていて頂戴」という色が篭っていた。
クラークは仕方なく、パーティー会場内をうろつく事にした。クリスマスツリーは宗教上の理由からか飾られていないが、柊の木があちこちにアクセントとして散りばめられている。もっとも、人の多さで飾りつけはよく見えない。背の高いクラークは、人の頭を見に来ている気がした。
中央ではダンスが始まっている。様々なペアがいるが、皆似たような笑顔を浮かべていて、退屈に見えた。
壁を背中に、1人暇を囲っていたのだが、ふと気付くとダンスの輪の中にロイスがいる。
さてはルーサーか、と身構えたクラークだったが、相手は全く違う男だった。

年齢は自分と変わらないだろう。背丈もほとんど同じくらいだ。この人込みの中でもトップクラスのタキシードを着こなし、優雅にステップを踏んでいる。水際立った容姿はロイスといる事もあり、一際目立った。クラークも、2人のダンスに束の間見惚れた。
曲が終わると同時に、ロイスがその男をこちらへ連れて来る。 あ、と言いかけて、止めた。
2日前、暴漢に襲われていた男だ。名前は確か―――

「やあ初めまして、ブルース・ウェインです」
男はにこやかにそう名乗った。



レックス・ルーサーに挨拶をするついでに、側にいた美女に挨拶をする事もブルースは忘れなかった。プレイボーイの嗜みである。
ロイス・レーンはルーサーに付き合うのが嫌になって来ていたのか、あっさりダンスの誘いを承諾してくれた。いささか痛む脇腹に注意しながら1曲を踊り終えると、彼女はすぐさま「同僚の連れ」に紹介するとブルースの腕を引っ張った。
その連れは、退屈そうに壁に寄りかかっていた。眼鏡といい髪形といい、この場には不釣合いな地味さである。背丈や肩幅が自分とほぼ変わらない事にブルースは驚いたが、近くに寄ってもっと驚いた。
あの男だ。昨日、ゴッサムベイにいた記者。

「は、初めまして。デイリー・プラネット本社のクラーク・ケントです」

間違いない。このどこか抜けた喋り方に苛立った覚えさえある。
その男と、NYで会うなんて。



挨拶を交わした2人にロイスが笑いかけ、言った。
「クラークもブルースも、お互い知らない所で出会っているかもしれないわね。花形記者に、有名な大富豪だもの」
いや違うこの前会ったばかりだと、2人は心中でそうぼやいていた。

「ケント君はどんな記事を書いているんだ?」
「今は社会面です。前は文化面にも」
「そうか残念だな、僕はどちらも読まないから。退屈で」
「あはは、そうですか」
「テレビならたまに見るんだけどね」
「テレビは全然見ませんね、僕は。下らないゴシップばかりで」
2人の心中を、ある思いがよぎった。
…やっぱり、こいつとは相性が悪そうだ。



「ブルーシー!こんな所にいたの?」
小柄な美女が、突如としてブルースに抱き付いた。やや酒が入っているようだ。
「探したのよ!ね、一緒にテラスへ行かない?ここ暑くって」
「いいよリンダ。…それじゃあお2人さん、失礼させてもらうよ。またねロイス」
「ええまたね、ブルース」
ロイスが手を振った。寄り添う2人は人込みの中に消える。
「…今の女、見た?あれが今年のアカデミー賞にノミネートされたなんて信じられないわ」
「え?…ああ、うん、そうだね」
「クラーク?どうかした?」
「いや、何でもないよ」
彼女に抱きつかれた一瞬、ブルースの表情がしかめられたのを、クラークは見ていた。
呑気な大富豪にしか思えなかったが、根はしっかりした男なのかもしれない。一昨日も一緒にいた男を銃弾から庇っていた。「怖かっただけ」と言ってはいたが…
「クラーク!」
「うわ!な、何だいロイスいきなり…」
「ペリーからの連絡よ!近くのビルで自殺騒ぎが起こっているって!」
「ええ!?」
「行くわよスモールビル!今年最後の記事がパーティーなんて嫌気が差してたんだから!…あ、それとも残る?」
「い、いえ、行きます」
「よし!走れー!」



「…何かあったようだね」
テラスから見えるビルの近くに、赤いライトが群がっている。恐らくはパトカーだ。
「そう?そんなのいいじゃない…」
べったりとくっ付いて来るリンダに閉口しながら、ブルースは目を細めた。何らかの事件が起きているのだろう。
持って来たケースの中には、バットマンの道具一式が納まっている。
「ねぇブルーシー、私達、出会ってからもう半年近いのよね」
「そうだったっけ?」
彼女に抱き付かれて、傷が再び痛み始めた。バットマンになって事件に向かうほどの力はあるのだろうか。
「なのにあなたったら、肝心な時になるといつでもいなくなっちゃう…」
確かめるように左手を動かす。鎮痛剤で鈍っているかと思えたが、幸いにも感覚は鈍っていなかった。これから一仕事出来るだけの体力も、移動時間の睡眠で温存してある。

…ならば行くだけだ。

「ねぇブルーシー、私には本当の事を教えて?…噂なのよ、あなたが実は…」
「ごめんよリンダ、その話はまた今度聞かせてくれるかい?」

優しいキスをファンデーションの濃い頬に。
放蕩息子のウィンクをアルコールで潤んだ瞳に送ろう。

「休み前で会社の方が慌しいんだ。ちょっと話をしてくるから、また今度」
「え…?いやだ、ブルーシー!ねぇ待ってよ!」
目立たぬよう、そして出来る限り迅速にブルースは走り出した。
「…いいわよ!噂は本当だったのね!信じられない!!」
背中に浴びせられた言葉も、ブルースの耳には既に届いていなかった。

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