ゴッサム港に停泊した客船は、そのまま世界一周でも出来そうな大きさと豪華さだった。
甲板には巨大な星が乗っている。メトロポリスのツリーには、確かクレーンで据え付ける予定だったろうか。星だけでも、大きさは自分の10倍もありそうだ。
「ちゃんと置けるのか不安だな」
「大丈夫よ。メトロポリスの技術者は腕がいいもの」
「ツリーは高さが…」
「75メートル。世界最大を目指そうとしたけど、時間が足りなかったんですって」
「十分に凄い。葉の部分だって本物を使っているんだろう?」
「そう、芯は鉄棒らしいけど」
配られたシャンパンをどこに捨てようか、ブルースは相槌を打ちながら目を配った。昨日のパーティーに劣らず人は多い。ゴッサムの名士のみならず、彼らが招待した客や、抽選で当たった市民も大勢この船には乗っているのだ。イブからクリスマスに掛けてのイベントであるから、人数は少ないだろうと思っていたのだが。
セントポーリアの鉢にでも掛けようかと、グラスを手にさりげなく近付く。セリーナやその他に見咎められないよう、そっと流しこもうとした時だ。
黒髪に眼鏡の男と、目が合った。
…またあいつだ。
「彼がいたよ、ロイス。仕事の時間だ」
「あら本当?」
ロイスがグラスの中身を軽く喉に流し込んだ。振り返った彼女に、ブルース・ウェインがにこやかな笑みを向けてくる。クラークとは目礼ひとつ交わさなかったのだが。
「やあロイス、また取材かい?大変だね」
「こんばんはブルース。あなたこそ毎晩遅くて疲れないの?」
「夜型なんでね、慣れてるよ。ああ、彼女を紹介しないと」
そこから紹介が始まった。
セリーナ・カイルの名は、クラークも知っていた。確か動物保護か何かの慈善運動に参加していた女性である。彼女も幸いデイリー・プラネットの購読者らしく、クラークやロイスの記事も読んだ事があると言ってくれた。社会面には余り目を通さないと言うブルースとは大違いだ。
「この運動にはいつから参加をしていたの?」
「2ヶ月ほど前からね。丁度、放火が起こった辺りからかしら」
ロイスとセリーナはすっかり打ち解けて会話を交わしている。
一方。
「あー、カント君」
「ケントです」
「ああそうだったね。美しい女性のリストなら、電話帳くらいあっても覚えられるんだけど」
「そうですか」
「うん」
「……」
男2人は、打ち解けたと言い辛い雰囲気であった。
何となく押し黙ってしまった2人の頭上で、花火が上がった。ほぼ同時に乗客からもわっと歓声が飛び出す。
「出航だ」
霧笛が鳴る。闇に包まれた海を、豪華客船はゆっくりと押し開いていった。
脇腹に冷たさを帯びた痛みが走った。そろそろ鎮痛剤を飲まなければなるまい。夜風に当たるとことわってから、ブルースは水の入ったグラスを手に外へと向かった。
船のスピードは緩やかだが、体を打つ風は強い。そのお蔭でブルース以外の人間はいなかった。改めて周囲を確認してから、ブルースは錠剤と水を口に含み
「あれ、お風邪ですか?」
吹きかけた。
何とか喉に流し込み、振り向くと、クラークが立っている。
「…急に声を掛けないでくれるか、ケント君」
「す、すみません」
つくづく間の悪い男だとブルースは眉を顰めた。初対面の時もそうだった。記者ならもっと周囲に敏感であるべきだ。いや、この場合は逆に鈍感であって欲しかったのだが。
「何か用事でもあるのかな?」
「あの」
クラークが右腕を差し出す。
そこには、コートが掛かっていた。
「外に出られるなら、寒いかなと思って…一応持って来たんですけど、すいません、余計でしたね」
ばつが悪そうに彼は笑った。その笑みを見て、ブルースの胸に罪悪感が走る。
いつだってこうだ。昼間の顔は無神経さで、夜の顔は冷徹さで、自分は誰かを傷付けている。
クラークは確かに間の悪い男かもしれない。田舎出身らしいお節介さを有してもいる。
が、それと紙一重の優しさは、否定すべきものではない。自分にはない美点だとブルースは感じた。
「…謝るのはこちらだ、ありがとう」
だから礼の言葉も、コートを取る手も、自然に現れてきた。
微かに笑った表情は穏やかで、いつも浮かべているものより遥かに親しみやすい。
奇行や馬鹿馬鹿しい事故で有名なブルースだが、そう悪い人間ではなさそうだとクラークは感じた。時間を掛ければ、案外仲良くなれるかもしれない。
場を先程とは打って変わって、和やかな空気が包んだ。
「君も知っている通り、近頃はパーティー続きでね」
ブルースがコートに腕を通しながら言った。
「栄養剤でも飲まないと体が辛いのさ」
「無理は禁物ですよ。普段もお忙しいのに」
「なに、大した事はない。会社経営はフォックスに任せているからね」
僕は単なる顔さ、とブルースは肩を竦めた。
「会社の顔なら、それこそ毎日大変そうですよ。僕みたいなどじには勤まらない」
「そうかな」
「そうですよ」
クラークはブルースの横に立った。ゴッサムの夜景が遠ざかっていく。
「君は良い人間だ」
独り言のようにブルースが呟いた。驚いて顔を上げたクラークの目に、どこか寂しげな彼の瞳が映る。
「あ、ありがとうございま」
最後まで続けられなかった。
耳が異様な音を捉えたのだ。海の音、エンジン音、どれとも異なる。
『助けてくれ!助けて!』
くぐもっているが、クラークの耳には確かに届いた。
誰かが助けを求めている。
「…ケント君?どうした?」
「い、いえ、寒くて…すいません、僕の方が風邪ひいたみたいです」
「中へ入ろうか」
ええ、とおざなりに頷き船室へと戻る。意識を集中させると、ざわめきの中でもその声ははっきり聞こえた。
「すいません、ちょっとトイレに行ってきますね」
にっこり笑って手を振ると、ブルースの答えも待たずクラークは早足で人込みの中を縫っていった。
広いロビーを抜け、廊下を歩き、階段を降りていく。幸い見咎める船員もいない。走った方が速いのだが、船の中で突風を巻き起こす訳にもいかなかった。
エントランスホールに着いた辺りから、その呼び声はますます強くなっていく。クラークは険しい顔で廊下を曲がった。
恐らくは機関室だ。船の中枢で何が起きているのか?
スタッフオンリーのドアをこじ開け、クラークは機関室へ向かう階段を注意深く下りていった。鐘を突くようなエンジン音が耳に痛い。
「静かにしろ!」
がつん、という音が鳴り響いた。うめき声が聞こえる。と同時に助けを呼ぶ声は消えた。
「おいおい、手荒に扱うな。どうせあと1時間ももたない命だぞ」
階段を下り終えたクラークは、そっと機関室のドアに近付いた。見る者がいれば、彼の目にうっすら青い光が灯った事に気付いただろう。ドアには鉛が含まれていなかった。
「でもボス、こいつさっきから助けろだの離せだの、うるさくて」
「外には聞こえんさ。好きなようにさせてやるといい。…それとも」
半分は白、半分は黒のタキシードを着た男が椅子に座っている。男は足を組み替えながら、隣の椅子に顔を向けた。その横顔を見た瞬間、クラークは絶句した。
「彼女のキスをくれてやるとかな」
顔の半分は、赤く崩れ落ちていた。
「お断り。私はこれからが忙しいのよ」
椅子が回る。座っているのは魅惑的な女だった。
その緑色の肌や絡み付いている植物さえ除けば、売れっ子女優と言ってもおかしくない。
「タダ働きは嫌か、アイビー?」
「当たり前でしょう」
「これからたっぷり元は取れるさ」
「儲けは5:5よね、トゥーフェイス?」
「そう、2分割だ」
2人の足元に転がっているのは、紛れもなく船長だった。運転しているのは船員らしいが、皆頭に銃を突きつけられている。珍奇な格好をした男達が、船員代わりに闊歩していた。
トゥーフェイスに、ポイズン・アイビー。どちらもゴッサムシティの名物ヴィランだ。彼らが何故ここに?
理由は後で聞こう。今はとにかく人質救出が先だ。クラークはシャツのボタンに手を掛け
「ケント君?」
背中に掛けられた声に、高速着替えの手を止めた。