「…トイレは向こうだと思うんだが、僕の勘違いでなければ」
機関室の前に立つクラークに、ブルースはトイレの方向を指差した。
飛ぶように歩いていった彼の様子に、よければ船医を呼ぼうかと心配したのだ。声を掛けるつもりだったが、思った以上に早い足取りは、その機会をブルースから取り上げた。代わって頭に浮かんだのは疑問だった。
トイレに行くならホールのあった階で十分なのに、何故降りていくのか?と。
迷っていると考えるには、彼の歩みは余りに迷いがなかった。
「……向こうですか、トイレは」
「そう。一緒に行こうか?そこは機関室だよ」
「………・ええ、機関室なんですかここ、それは知らなかったな」
妙に間を空け、しかも小さい声でクラークが答える。ゆっくりした素振りで、彼はブルースのいる踊り場まで歩いて来た。
「あのウェインさん、それが、そのですね」
「捕まえろ!」
「!」
機関室のドアが急に開いた。そこから飛び出してくる男女に、ブルースの思考が驚愕で占められる。
トゥーフェイスに、ポイズン・アイビーだと?
「ウェインさん、走って!」
トゥーフェイスの手に握られた拳銃が、クラークの声よりも先にブルースを覚醒させた。
銃声と同時に兆弾が襲いかかる。ブルースはクラークの腕を引っ張りながら、階段を駆け上がった。
「撃っちゃ駄目トゥーフェイス!片方はウェインよ!」
「それがどうした!」
「馬鹿ね、有名な大富豪じゃないの!誘拐すれば身代金がたっぷり頂けるわ!殺しちゃ駄目!」
銃声とエンジン音の中から、そんな声が聞こえて来た。
勢い良く階段を駆け上がり、ブルースはドアから飛び出す。クラークを見ると被弾した様子はないようだ。
彼を逃がしてから、どこかで着替えをしよう。ヴィランが2人もいるならば、バットマンとしての顔が必要になる。
「逃げますよ!」
「っ!」
クラークが、普段からは想像出来ない力と素早さで、ブルースの腕を引っ張った。彼と共に走らざるを得なくなったブルースは、心中で舌打ちした。
「待て!逃がすな!」
振り返ると、トゥーフェイスの手下達がドアを飛び出して来た所だった。かなりの人数だ。一様に拳銃を構えている。
「奴ら銃を持っている!ホールには戻れないぞ!」
「分かっています、外へ!」
高級絨毯を銃弾が掠めた。全速力を出しているらしいクラークは、ブルースの手を掴んでぐいぐい引っ張ってくる。その速さに驚きが湧いた。自分と遜色ない。彼はそのまま、使われていない食堂へと入る。
窓を開け、2人はテラスへと飛び出した。置かれていたセントポーリアの鉢が、2人に蹴られて宙に舞い、海へと吸い込まれていく。右手の甲板に人は多いが、そことは離れた食堂のテラスに気付く者はいなかった。
「おい、行き止まりだぞ!」
「でも人気はありませんよ。他の人が撃たれる心配は」
「他人より自分の心配をすべきだな」
トゥーフェイスがテラスに立った。横に広いテラスはその分、奥行きがなく、後ずさった2人の背中に手すりが当たる。
「2人の目撃者か。だが片方は生き、片方は」
激鉄が上がる。クラークの胸へ、ゆっくりとトゥーフェイスは拳銃を向けた。
「ここで死ぬ」
「コインは投げないのか?」
ブルースはそうトゥーフェイスに語りかけた。クラークを死なせる訳にはいかない。ましてや自分だけ助かるなど。
「選択肢は2つある。生か、死かだ。どちらか1つ、コインで決めればいい」
君の得意分野だろう、そう言ってブルースは微かに笑った。
「……確かに」
しばしの間の後、トゥーフェイスは頷いて懐に手をやった。銃口が僅かに下がる。が、彼の後ろに控えた手下達も、ややボスの様子に気を取られているようだ。
「ウェインさん……」
「隙が出来るのを待て」
「助かったところで、誰が僕らを助けてくれるんです?」
「待つんだ」
「船員が全て虜なら、助けも呼べない」
トゥーフェイスがコインを宙に投げた。
「ウェインさん」
「何だ!」
「捕まって、息を止めて」
クラークの手が、ブルースの背中に回った。
ブルースは次の瞬間、自分が落下しているのを知った。
トゥーフェイスの顔が、船が遠ざかり、そして背中に衝撃が走る。
「………!」
冷たさと暗さが襲い掛かって来た後で、ブルースは自分が海に落ちたのだと悟った。
飛ぶか迷った。だが、それにはまだ早い。あそこで飛べばブルースのみならず、ヴィランにも正体がばれてしまう。
クラークはブルースを抱え直すと、海面に顔を出した。ここからならまだゴッサムの方が近い。着水の勢いで眼鏡が落ちた事に気付いたが、それよりもクラークの頭はヴィランとブルースで一杯だった。
ブルースは気絶したのか、黙ったままである。彼が目を閉じているのを確認すると、クラークは猛烈な勢いで足を動かし、泳ぎ始めた。
5分後、2人はゴッサム湾に上がった。吐く息が白い。
「ウェインさん…ウェインさん!」
紙のような彼の顔にクラークはぞっとした。12月の海に浸かるより、飛ぶ方が良かっただろうか。保身を思ってしまった自分に後悔の念を噛み締める。
濡れた衣服は脱ぐ方がいいだろう。クラークはブルースのタキシードに手を掛け、押し開いた。
白いシャツの脇腹部分が、赤いものでべっとりと濡れていた。
クラークの声が聞こえる。何てうるさい声だと呆れながら、ブルースは目を開けた。
どうやら気絶していたらしい。全速力で引っ張られながら走った事で、傷口が開いたのだろう。着水がとどめを刺したようだった。痛みを余り感じないのが逆に不気味だ。
あの場から脱出できた事については、クラークに感謝してもいい。はっきりして来た視界の中で、真っ先に目に入ったのは彼の瞳だった。
ああ、晴れた空と同じ色だ。
「ウェインさん、あなたは…」
眼鏡は落としてしまったのだろう。素顔のクラークが今では明確に見て取れる。
額にかかる黒髪、青い瞳、1度見たら忘れようのない整った顔立ち。
先日出会ったばかりのヒーローと、クラークの容姿が、ぴったりと脳裏で重なった。
「……スーパーマン」
ブルースの呟きに、クラークの面には愕然とした色が現れた。
矢張り眼鏡のスペアを持っておくべきだった。クラークはそう考えながら、首を振った。
「な、何を言って」
「誤魔化すな。輪郭も、目も、そっくりだ。…この髪も」
水を吸って乱れた髪は、元々の癖が戻ってしまっている。カールした前髪にブルースの手が触れた。
クラークは諦めた。それに、自分のアイデンティティだけが暴かれた訳ではない。
「分かったよ」
先程とは異なる強い光が、ブルースの瞳に宿っていた。今の時期の海に似た色を、クラークは凝視した。
「流石は“世界最高の探偵”だね、バットマン?」
今度はブルースが息を呑む番だった。
「…何を根拠にそんな出鱈目を」
「この傷は」
クラークはブルースの脇腹を示した。止血に当てたタキシードはやや血を吸って変色している。
「さっきの銃弾で出来たものじゃない。縫合の痕が見えるからね。22日、ゴッサムで、僕を庇った時に出来た傷だ。そうだろう?」
「……」
「君はバットマンだ、違うかい?」
長い睫毛がゆるやかに伏せられた。
「…名推理だなスーパーマン。全く、どちらが探偵なのか……」
言葉と共に上げられた顔からは、蕩児の表情が綺麗に消えている。引き結ばれた唇に、きつい目付き。輪郭まで研ぎ澄まされたようだった。
あのマスクの中身に相応しいと、クラークは思った。